ネットワークコミュニティ

ソーシャルネットワークサービスというものが流行りだして、最初にかかわったのがMixiだった。結構いろいろなコミュニティーをめぐり、いくらかの新しい出会いもあった。

しかし、思ったようにソーシャルにもネットワークにもなりきれず、ネットワークコミュニティの限界を感じてしまい、徐々に離れていった。

そんなころ、twitterとFacebookが始まり、最初はtwitterにはまった。見ず知らずの人と出会い頭のコミュニケーションが累積し、いつのまにかクラスターというゆるいコミュニティーができる、その現象が面白かった。次第にフォロー数を増やすことで、フォロワーも増え、コミュニケーションは活発になった。しかし情報量が膨大になり、時間がとられる事と、めまぐるしいタイムライン上でのやりとりが、億劫になってきた。
3.11を境に活動家たちが膨大な量のツイート合戦をはじめると、タイムラインはコミュニティーでは無くなってしまった。
フォロー数を減らし、情報収集中心に、たまにつぶやく程度にしたら、面白味も減ってしまい、いつのまにか毎日見ることも無くなった。

Facebookは実名顔出しが原則であるため、長く交流が途絶えていた人との再会や、同業者同士のネットワーク、専門性のあるグループ、スマートフォンとの連携が良いメッセージなど、充実した機能とサービスとともに、日常の延長的なコミュニティーになり、いまではインターネット接続中いちばん利用時間が長い状態だ。

いままででいちばんネットワークを使ったコミュニテイーとして成功しているように思える。だが、よくよく注意してみると、それは業界的、あるいはサークル的なコミュニティーであって、現実世界にある、共同社会的なものとは、どこかずれていることがわかってきた。

家族でも地域社会でも、現実の共同社会は、生活と不可分なものだ。ところが職場とくに業界や、サークルのような集まりは、都合の良いとき、必要なことについてのつながりを持つ場であって、生活との連続性はあえて考えない場なのだ。

Facebookでは、しばしば日常生活のひとコマのような写真つきの投稿が多くみられる、私もたまにはやる。だがこれはあくまで皆で共有したい(あるいは自慢したい)ものとして切り取られた日常だ。私の場合でいえば、Facebookの友だち関係者は仕事とかなり密接なので、ひろい意味での営業活動の場になっている。だから営業的ポジションからの情報交換や市場調査的な意味合いのある、日常の提供になりがちなのだ。

でも私のFB友だちには、いわゆる顧客層はあまりいない。やはり仲間内サークルの一種なのだ。

だから、営業のつもりでいても、実際のところはあまり営業効果は無い。業界トークで盛り上がる事自体は楽しいし、あたらしい仕事仲間と出会い、情報交換から、事業開拓にまでおよそビジネス的な活用もいろいろ考えることはできる。けれども、この世界に埋没してしまえば、ほんとうに私たちをとりまく社会の現実からは切り離されるばかりになってしまう。

そういう意味では、いつ誰とすれ違うかわからないtwitterのほうが、現実社会との連続性は強かったような気がする。自分がアクティブになりきれないなかで、タイムラインがアクティブに占拠されてしまい、いまさら打って出る気にはなれないのだが、可能性としてはまだ面白いかもしれない。

Facebookをやめるにはまだ早いと思っているけれど、自慢話への相互いいねで満足しあっているのでは、そのうちに退屈してしまうだろう。

現実がより魅力的で活動的になってきたとき、Facebookでは物足りない。タイムラインが鬱陶しいと思うようになりそうな、そんな予感がするのだ。

いまの私にとってSNSは、遠く離れていて、でも頻繁にメールや電話のやりとりをするような関係では無い、気になる人たちの、様子をうかがい知ることができる場であり、私もそうした人たちにむけて、軽く生存証明を出し続けるような場になっている。


このwikiは舞台裏だが、SNSは楽屋口のような場だ。

それでは、舞台はどこにあるのか。

もちろんそれは現実社会なのだが、もしもネットワーク上にあるとしたら。

やはりブログなのか。

あまり気が進まないのだが、そろそろ香山由人のオフィシャルブログという在り方も考えていいのかもしれない。

言葉で表現する者でありたいのなら。

こんなマニアックな舞台裏というよりは道具倉庫的なwikiではなく。

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