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#freeze *&date(Y-n-j[lL],2015/11/21); 東京で三日間の通勤という、過去22年間ありえなかった経験をした。 スーツにネクタイでは無いけれど、一応トークの司会者としてのビジネスモードの服を着て、改札をピッと通るカードも初めてつくり、まともな生物としての感覚としてはありえない高密度密着状態で移動し、80年代的レトロフューチャーみたいな趣味の悪い造形のイベント施設に通った。 川崎市の実家に泊。ホテル暮らしでは無かったので、かつての生活感を思い出す部分もあり、三日目にはこのような暮らし方がやや日常になりかけていた。 仕事で2日以上滞在するのは22年ぶりだったのだが、たまに休暇で訪れるたびに感じた物質的文明的変化も、慣れてしまえばそれほどのこともなく、むしろ外形も含めて社会も人間も以前と驚くほど変わっていないということを実感した。 通勤電車の都会人は虚ろな目でスマホを眺めているだけの生き物だと思っていたけれど、その間にも生命活動は決して遅滞することはない。田舎人とくらべて生物レベルでの活性は高いくらいだ。 それは遷移の初期段階の驚くべき多様性のようでもあり、新鮮な動物の死体に群がるおびただしい菌類の活動を見るようでもあった。 なるほど、これが都会の魅力なのだ。このせわしなさにおいてこそ生命活動は充実し、中途半端な物質文明の進歩は、呼吸から排泄までの、動物的生理活動を損ねるどころかかえって活性化している。 三日目の朝には、私自身の脳も手足も田舎の朝にくらべて短時間で目覚めるようになった。 通勤時間帯に行動する者には経済活動から引退した高齢者はほとんどいない。 それゆえに、経済活動がそのまま生命活動として、生存の不安定状態に抗して必死で活性化している。 生命の本質がかえって際立っているのだ。 不健康であるからこそ生命活動は輝くことがある。 もちろん、仕事帰りの電車の中では憔悴した勤め人たちの濁った目を見ることもある。それでも単に糖分不足になっているだけの夕刻の田舎人の目に比べればはるかに魅力的だ。 身体的基本防御圏であるパーソナルスペースを侵された密着密室移動空間では、だれもが必死になって出口を探している。かつては新聞や雑誌を通して、いまはスマホの画面をとおして、3Dな仮想空間の中へ、ここで無い場所、今でない時、自分でない者へ意識を飛ばしている。
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