2016-10-18[火]

稲刈りをしながら、このために働いて稼いでるみたいなもんだなぁ、いったいこれってどんな農業なんだろうか、と思ってしまったことが、ひとつのきっかけ。その日の夕方に有名な林業運動家が、今日は燃料代200円だけで、これだけの仕事ができた、大きな機械なんていらない、みたいな事を書いていて(まったくいつものパターンなんだが)、いったい何人がかりで、どんだけの材を動かしたのか?と思いつつ、なんだか、自分が田んぼでやってる事に似ているような気もしたわけだ。

かつて、棚田耕作を山村復興運動的な位置づけでとりくもうとしている人たちと組んで、自分なりにも運動的な要素と運動が現実生活を動かすかもしれないという曖昧な期待をもっていた事もあった。けれど都会人の期待する田舎的なおもてなしができず、イベントへの参加者は減る一方で、具体的目標だった移住者増加も見込めなくなり、原点に帰って自分で出来ることだけで良いと思うようになったのが、あの棚田での耕作だった。そうしたら、いつのまにか耕作者が増えいまや復田するべき荒廃田が足りないという状態だ。つまり運動的な展開が無くなったとこから、現実が拡大している。
もちろんその現実も、稼ぐ世界とのパラレルなものでしか無い弱さがある。
かつて、本当にここだけで食べていた時代の、力づよい美しさと比べれば、真似事の私たちの描く景観の力弱さが情けない。

そこにカシナガトラップでカシノナガキクイムシへのたたかいを挑み成果を上げているという人とのやりとりがあり、キクイムシ的なあり方に象徴される、生命系の経済を思い起こすこともあって、ついに、無理難題なテーマ純粋林業などというものを、公にかかげることになってしまった。

「純粋」という言葉には、素朴実在ではない、超越論的な存在論をほのかに意識している事も明かしておこう。

そんな事を考え始めると一瞬にして日常の数千倍くらい脳の回線が働くらしく、そのエネルギー消費たるや、長距離を走りぬく程のものになってくる。

加えて、無駄に早く配達されたサーバーと、誠心誠意の鮮度がこもった黒豆であるから、もうプロセッサーの能力は限界を超え、久々の脳力ダウンに陥ってしまった。

生身のプロセッサは休めば快復するので、もう充分に大丈夫とは言えるけれど、課題として出してしまったテーマが大きすぎて、その純粋な思いを無駄にはできないと、またしても、計画的で統一的なワークを構想することにもなる。

難しことは、むずかしいままで、かかえて あるく。

それは、私の基本信条だけれど、さすがに、ちょっと大変なときはたいへんなのだ。

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