2013-12-24[火]久々にクリスマスイブの礼拝に行った。聖書の第一日課を読んで欲しいと呼ばれたのだ。
創世紀 3章 8-16 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。 そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、 恐れて身を隠したのです」。 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。 食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。 人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、 わたしは食べたのです」。 そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。 女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。 主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、 野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、 ちりを食べるであろう。 わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。 彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。 つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。 あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、 彼はあなたを治めるであろう」。
私は、人の原罪を女性が蛇にそそのかされたことに帰す、創世紀のこの部分は好きではない。ユダヤーキリスト教的女性差別の原点がここにある。
男は女に、女は蛇に、罪を犯したきっかけをなすりつける、でもどちらも自分の罪をきちんと自覚していない。なんとも情けないはなしだ。(てゆうか神様ばかにされてるかも)
言い訳して本質をはぐらかす、いかにも人間らしいとも言える。
裸でいるのが恥ずかしいのではない、恥ずかしい思考回路がそこにあるってこと。神様に内緒で何をやらかしたのか?
(それにしても、なぜこのタイミングで私がこれを朗読することになったのか?)
クリスマス礼拝でも、マニフィカト(聖母マリアの祈り)をとなえる。
マリアがイブの原罪を乗り越えた、女性の勝利の詩
わたしの魂は主をあがめ わたしの霊は救い主である神を喜びたたえる 神はこの貧しい女にも 目を留められた 今から後いつの世の人も 私を幸いな女と呼ぶ 力ある方が 私に偉大なみ業をなさったから 主のみ名は聖 その憐れみは世々、主を敬い畏れる人に 主はみ腕の力を振るい 思い上がる者を打ち散らし 権力を振るう者をその座から下ろし 身分の低い人を引き上げ 飢えた人を良い物で満たし 富んでいる人をむなしく追い返される 神は父祖アブラハムとその子孫に 永遠に約束されたように 憐れみを忘れず 僕イスラエルを助けられた
聖書は好きな所だけを読めば良い・・とまでは言わないが
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