普遍と個性と言い換えても良いのだけれど、
誰がやっても同じという普遍性を見出し、人類共通の価値として行動指針として活かしてきたのが近代という在り方だった。その中で個が埋没し取り替え可能な部品になって行くという過程も進んでしまった。
確かに「誰が言った事か」という判断基準では、その人の個性や権威によって事の本質が理解されないという事が起こり得る。だから、本質に基づいた判断基準として「何を言ったのか」に注目することは重要だ。しかし、その判断をするのは、他でも無い「私」なのだ。
私は、誰でも無い普遍的な判断軸を持った存在だろうか?
私は、過ちを犯し、迷い、みっともない、それでも今・ここで生きている、取替不可能な存在だ。
人は皆そのような者だから、誰かの言っていることもまた、曖昧で、偏って、間違っているかもしれない。
それでもなお、誰が言ったのか、誰がやったのか、という事を通してしか、わからない意味がある。
権威や個性に頼らぬ普遍性の追求だけでは、こぼれてしまう実在する意味。
この意味には「価値」とか、「正しさ」という、曖昧な、しかし、避けて通れない、「色づけ」のある内容が含まれている。
たしかに日々の仕事の場面では、普遍妥当性という基準を用いたほうが、わかりやすく、安全で、効率的だ。でも、それだけでは世界は出来ていない。
それだけでは、私もあなたもできていない。
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あなたが言ったことに興味がある。
私があなたと響きあうことができたら、とても嬉しい。
正しいか間違っているか、それは日々移ろいゆくこと
私も、あなたも、昨日と違うし、明日には変わってゆく
世界は、あるときにはじまり、日々変化しながら、広がり、続いてゆく
あなたも、私も、私たちは全て、世界の一部
それが、普遍のほんとうの意味なのではないか。
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