限られたなかで †例えば、お金もそんなには使えないし、
時間だって、一日24時間全部使うことはできないのだし。
あまり他人に迷惑をかけることはできない。
そんなこんなで自分の行動にはいつも規制がかかっている。
自由でいられる私は、どこにいるのか。
全体を考えることはとても大切だ。
部分と全体?、全てのものは部分と全体が調和して成り立つ。
原因と結果?は必ずしも対応していないけれど、現実的には考えなければならないだろう。
何故、どのようにして、いまがあるのかということは、確かに哲学の重要な課題だし、生きる上でも大切なことだ。
でも私は、何事であっても悪いことの原因を追及したりはしない。
私は「諸悪の根元」という問題設定はしない。
良いことの原因は徹底的に知りたいと思う。
もしも悪いことがあったとしても、それは良いことが足りないからに違いないと思っている。
例えば経済の問題というのは、とっても重要なことだけれど、本質的には一時的なことでしかない。一時的なことはどうでも良いというのではない。でも、一時的なことでしかないという認識は重要だ。
そもそも経済性を考えなければならないということが間違っている、などという問題設定をしたとしても、それは現実からはなれて議論をするだけのことだ。
本質的なことは、常に生きることであり、生活そのものだ。経済は常に生活と不可分ではあるけれど本質ではない。だからこそ、充分だいじにしなければならないのだし、むしろ割り切って気楽に考えることもできるではないか。
本当に本質的なことは、大切にすると言うまでもない。常にここにあるし、いつでもここにいる。絶対に離れることはない。
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