目的を定めて行動する常識的に言えば、行為には目的があるはずだ。
勉強するのは○○のため
仕事をするのは✕✕のため
何らかの目的のためにするというのが普通だ。
何のために生きるのか
生きるということの目的を語るくらい無意味な事はない。
何のために在るのか。
存在に目的などあろうはずもない。
目的は、いま・ここの存在を、いま・ここでない何処か何時かに対象化する。
何処か・何時かに私は生きることはできない。
いま・ここ
いま・ここは、過去の結果か? 未来の前提か?
いま・ここは、
何ものにも、規定されない。
無限の自由がある。
創造
妥当な日常的判断としては、目的を持って行動することは間違いではない。 ある限定された条件のもとで、我々は日々目的をもって行動している。
12時に横浜駅で大好きなあの人に会う約束があるから、いつもよりちょっとおめかししていたら、思いのほか家を出るのが遅くなってしまって、11時15分発の電車に間に合うように、ちょっと急ぎ足で歩く。
そんな日常は、あらゆるところで目的に向かい、拘束され、支配されている。
それを否定も肯定もしない。
それが毎日だ。暮らしというものだ。
でも、私がひとたび、真の自由人として、そのものに対して立つときには。
目的などというものは、消滅する。
あの森林の入り口に立つとき
あたなたに対面するとき
私は決して目的などという事を口走ることは無い。
純粋な思いに目的は無い
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