考え方とか生き方とかを越えても

たとえば素晴らしい芸術家がいて、その作品には心底感動しているんだけれど、その人の生き方とか考え方については、イマイチ共感できない部分があるということはあってもいいと思う。

場合によっては、その人の作品そのものについても、これだけの才能があるのに、どうしてもう一歩の表現になってこないのかな、という印象をもつこともあるだろう。

その原因は、アーティストとしてどれほどの才能に恵まれていても、やっぱり私がどこかで感じる違和感と関係があるかもしれない。

もちろん私の感じ方と世間ひとたちの感じ方は大きくずれていることが多いから、私がこうした微妙な違和感を抱いていたとしても、その作品も作家もどんどん世間から評価を受けていくということだってあるとは思う。

いちばん残念なのは、素晴らしい才能があって(私だけでなく世間の誰もが認めていて)でもどこかでそれを生かし切れない何かがあって、その何かと私が感じている違和感にどうも関係がありそうだというパターン。

残念だけど、結局仕方がないとあきらめるしかないのか、それとも、その何かの壁を破って、真に芸術そのものに迫っていくという、まさに芸術の奇跡がおこるのをまつのか。

いずれにしても、私がその人に直接声をかける場面は、たぶんまったく無いだろうから。まぁそういう関係だということで、それはそれで、私は気長待つことにしよう。

でも、いちばん安心で気楽で、そして本当に幸福になれるのは、才能があろうがなかろうが、世間からどのように評価されていようが、もう何も考える前から、全く自然に私の感覚と共感できるという関係があった場合。

これもまた、アートのもたらす奇跡と呼んでいいと思うのだけれど、奇跡を待つまでもなく、最初からそうだと思えれば、それがいちばんいい。

私は、感動とか幸福とか(つまり奇跡とか!)そういうものは、さりげないところにやってくるような気がしている。(ときに見逃してしまうくらいに)

そのさりげなさのためには、おおげさな仕掛けは必要ないのだ。

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