2016-10-25[火]

https://twitter.com/yunikayama/status/790509529641340928

現場主義というのは、正しすぎるので、

いい意味でまったくどうしようもない言い訳だ。

「いい意味でまったくどうしようもない」というのは、私の森林の恩師である故荒山雅行氏が、とある篤林家の事を評した言葉だ。

今から20年前。人工林の林業的「正しさ」は絶対的であり、天然林林業などというのはアウトロー的な扱いだった。

いまでは針広混交林と言えば、環境的配慮の行き届いた理想の森林というイメージもある。しかし我が家の田んぼのように、除草が追いつかず草だらけになって稲刈りを迎えるような田んぼを「針広混交田」と言って褒める人はいないように、林床に雑木を茂らせるような森林は美林とは思われないものだった。

ところで、本題は現場主義だ。

「すべては現場で起きている」「現場が言うことを聴かない」「現場を知らずに何を言うか」

目標とか理論よりも、まず「現場」から始める。

中学ではいわゆる運動神経的には最低レベルなのにハンドボール部に入り、不器用さそのままに心肺能力だけで練習にしがみつき、常に試合では補欠としてベンチにいる。実力ギリギリチームなのに優勝を目指していたから、試合に出られる可能性はほぼゼロ。そんな中でただ一回だけの出場チャンスが与えられ、たった一回のパスを受けてゴールを決めた。それが中学時代を通じて公式戦での唯一のゴールだったのだが、この体験が私の現場主義の基礎をつくった。

サヨクの周辺で社会的意識を持って活動をしはじめた高校時代、私のスタイルはさらに徹底した現場主義だった。

ゼロから文化祭を創りあげるという当時の県立川崎高校のスタイルの真っ只中で、文化祭を創ることは、あくまで表現の場をつくることであって、まず自分自身の表現したい事、表現そのものを中心にしたいと考えていた。
だから文化祭の実行委員の中心にいながらも、あくまで映画とバンドの発表の場としての文化祭であり、そのための諸活動だった。

生徒の自治活動にかかわりつつ、生徒用印刷室ではなく、中学と違っておよそダレダレでどうしようも無かったハンドボール部の部室に生活の根拠をおいていたのも、あえて与えられた集団としてのクラスにこだわろうとしたのも、理念や目標よりも、現場を中心にしたかったからだ。

長い引き篭もり期間を経て大学に入ったときも、哲学入門的な総論よりは原典テキスト解読を重視し、そこに文献学的な胡散臭さを感じると、いきなり「井戸掘り」にハマっていく。道具から全てを手造りし、実際に会話を通じて土地の言葉を習得し、運動論や技術論をたたかわせつつも、とにかく実際に水を出すまで井戸を掘る。
この完璧なまでの「現場性」にある意味では陶酔していたとも言えるのがアジア井戸ばた会だった。
そこに活動としての限界があり海外協力事業としての不成功の原因があった。

最終的にミンダナオは私の現場とはなり得ないという見極めから、日本で何をして生きていけば良いのか、まったく見通しの無い状態で、ズルズルと延長を続けていた大学生活を終えた。

完全に「現場」を失ったとき。自分の身体以外の何物にも依存しないノマド的な生活を妄想したこともあった。

だが、あらたな現場の展望が見えて来た。それが八坂村での生活であり林業との出会いでもあった。林業現場の一作業員としての生活の基盤のうえで、過疎地の地域づくりや、棚田の復興耕作など、現場的な要素に溢れた充実した生活がはじまった。

現場人であることは、教養主義的でノマディックなインテリに対して圧倒的に正当な暮らし方を主張できた。

その正しさが、やがて組織の運営管理という立場のなかで、失われて行く。

正しい強さはまったく脆弱なものでしかない。

現場労働は時間の中にしか無い。

だが人は時間に生きるだけの生き物ではない。

こうして、精神の安定を失い、欝と呼ばれる状態に。

いま、またしても現場主義の正しさ美しさに魅了されつつある自分がいる。

正しいことを求める必要はない

美しさはそのまま備わっている

現実は現場を超えて永遠に向かうはずなのに

現場という幻影に固執する。

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