クラシック音楽のなかでも、最も知られた歴史的名曲であり、多くの論考や感想がネット上にあふれているこの作品。このwikiで扱うには、あまりふさわしくないと思う。
最近久石譲のベートーヴェンというページが検索でヒットするようになっている事に気がついた。
それならば、ベートーヴェンの交響曲についても、第9番から、それも最近手に入れたばかりの久石譲のCDから書いてみることにする。
https://www.amazon.co.jp/dp/B07LF9WSZT/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_QqzwCbSSWDH12
この録音をライヴで聴いていたわけだが、あらためてCDとして整えられた状態で聴くと、ライヴとは違った印象を持つようになる。
最初から最後まで歓喜のパーティー
一般に「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」という有名なベートーヴェンの言葉が、この一曲に集約されていると信じられている。しかし、久石の演奏は最初から歓喜に溢れている。
第一楽章の冒頭の混沌の描写とされてきた部分は、楽器の掛け合いを楽しむ、演奏の序章のような響きの楽しみとして再現されている。一楽章全体は、これから始まる祝宴の序曲のような軽快さで、あえてストーリー性を求めず、ただ音の響きを楽しみながら、アンサンブルの腕試しで終わる。
第二楽章は、ダンスパーティー。完全に縦ノリのビートで弾けるような演奏だ。快速テンポのなかで、木管楽器の名人芸的な構造を際立たたせている。
第三楽章も、弦を朗々と歌わせる緩徐楽章ではなく、あくまで管楽器のアンサブル重視。もともと少ない弦をさらに抑えて、ヴァイオリンの柔らかいアルペジオと低弦のビチカートに乗って歌うホルンが印象的な演奏。
第四楽章に至って、ようやく歓喜の歌として全開のフィナーレを向かえる。
ライヴ録音だが数多くのマイクを設置してかなりオンマイクに音を拾い、ホールの残響は最小限になるように整音されている。実演以上に、ボウイングのタッチ、木管や歌のソリストがオケや合唱に埋もれず際立って聴こえる。こうした細かい音造りにも、久石のこの曲に対する考え方が現れている。
物語性に乏しいという批判もあり得る演奏だが、全体を通して音楽する喜びを表現したパーティーのような爽快な演奏だ。
この歴史的名曲についての様々な論考や、各種楽譜、解釈をめぐる論争についてはここでは扱わない。 この音楽が示す世界の可能性について、もう少し時間をかけて記述を進めたい。
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