2015-1-24[土]
LalaSt.John?のバッハヴァイオリンとハープのソナタ
今日は夕方からLalaの演奏ばかりいろいろ探して聴き続けている。
いわゆる名人芸的な演奏家だと思っていたけれど、このバッハは良いな。
最終的に音楽をやりたいわけでは無いけれど、音楽家に象徴されるような表現者である事を意識している。
現場は確かに山だ。でも、この世界のあまりに非情な現実の只中にあって、山の現場にいるという、ある種の否定しがたい純粋性が、嫌になる。
FBで山の現場の写真を出せば、誰もがいいねを押す。木材の写真だとなおさら支持は集まる、でも、私の日常はこうした仕事の管理部門でパソコンに向かって書類をつくったり、会議に出たり、いろいろ交渉事を進めたり、そういった事はネットに書かないし、書いても面白くない。
山仕事における現場主義はある種の絶対的な正しさを内包している。だから面と向かって否定できない。それも特別に思いを込めた純粋系としての荒山林業地での仕事について書けば、内心ではそれで採算はどうなってるのだろう、等と思っていたとしても、その純粋性には勝てないのだ。
もしも私が音楽家だったなら、そこには山の現場よりも、はるかに多くの人間的な葛藤を持ち込んだ表現をすることになる。音楽はほぼ完全に人間の仕事だ。およそ芸術表現というのはいかに自然を模倣しようとも、人間の技以外の何事でもない徹底的に人為だ。
破壊と汚染と戦争と、謀略と裏切り、すべては金と暴力が支配する。そんな世界の中で、誰も否定しようがない自然に対峙する純粋な現場主義を、限りなく追求していきたいと思えばなおさら、徹底的に人間的な、つまりは余計な事である、人間表現から離れたくない。
200年も昔に、遥かとおい西欧で作曲され、同時代に生きてはいても決して会うことは無いだろう、外国の音楽家が奏でる音を、その時代性とか空間性とかではなく、現にここに表現されている音として聴く。
そのような音を奏でる表現者のように、現実と非現実の両方をつなぐように、山の現場という否定しがたい純粋性をも抱えこんでいく。
わかりやすい書き方などできるはずが無い。
だからここで書く。そこは素材の場だから。
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