差分表示


#freeze
*&date(Y-n-j[lL],2015/4/8);
検証
----

久々に新しいプロジェクト的な何かを思いついた

いいタイミングなので、思いつきの瞬間から、これを検証してみよう。

なぜ、ある種のアイディアは持続してカタチに成って行くのに、別のアイディアはそのまま萎んでいくのか。


αとは、はじまり、最先端、未完成、aの代わり・・・・・

思考実験的な、物語的な、でもかなり現実そのものをフォローしている、そんな、なにか事のはじまりについて、リアルタイムに発信するメディアを考えている

原型は、経営について、とくに林業の経営について、思い悩み壁に突き当たっている私自身の現在。

私が、私の事をそのまま報告するのでは、単なる私事のブログ的な発信になってしまう。

その存在自体が新鮮で興味深いような、例えば若者ならそれもいいかもしれないが、私はいま私自身を売り込んでも仕方が無いと思うし、それほど新鮮で興味深い存在とも思えない。
その存在自体が新鮮で興味深いような、例えば若い女性ならそれもいいかもしれないが(結局は鮮度や珍しさの魅力に留まってしまう可能性もあるし)、私はいま私自身を売り込んでも仕方が無いと思うし、それほど新鮮で興味深い存在とも思えない。

むしろ、私がこうしたい、こうありたいという思いを、別の存在を通じて表現ないしは創作して行くほうが、私としても事態を客観的に観ることができるし、読んだり観たりする立場からしても、そういう物語なのだと受け取るほうが、リアルな誰かのライフログそのものよりも、いまは面白いのではないか。

----
そんな発想の展開だった

私が私を表現するにあたり、直接自分自身の現状をライブに語ることが、はたしてどれほど面白いことなのか。疑問がある、ないしは自信が無い。

例えば私は私を売り込みたいのではなく、私のつくる商品や、私の考える企画を売り込みたいのではないか。

だとしたら、私自身が、こんな事をやってます、とか、こんな事を考えているとか、そうした、ライフイベントの報告よりも、商品や企画そのものを直接表現して伝えていくほうが良いのではないか。

創り手の顔が見えるということは、大切な事だけれども、現実に求められているのは、創り出せれたモノやコトであって、創り手自身ではない。

「これ」を生み出した人はこんな人なのか、という情報は、そのものの価値を補完する大切な情報だけれど、この人が生み出したものなら手に入れたい、というような、いわばファン心理が働くのは、ずっと先のことなので、いま必要なのは「これ」の価値なのだ。

Yahoo!ブックマークに登録 Google ブックマーク
clip!