バックアップ表示


1 (2014-01-19(日) 21:44:56)
#freeze
[[2014-01-19]]
あの頃は愛だとは知らないで、サヨナラも言わないで別れたよ

1994年[[アジア井戸ばた会]]の活動は、急速に低迷期に入っていた。
フィリピンに行って上総掘りを伝える、その活動の本来の目的は、井戸を掘ることではなく、上総掘りを取り入れ普及しようと試みる、フィリピンミンダナオ島の人たちに学び、私達自身の生活を見直す活動につなげることだ。

井戸掘り技術の伝承にこだわる「井戸」派と、生活の見直しを重視する「井戸ばた」派、そんな方針の対立から、1983年の第一次ミンダナオプロジェクト終了後、第二次プロジェクトの計画はまったくの白紙状態になっていた。
(このあたりの事は後日あらためて[[アジア井戸ばた会]]についての記事で触れることになるので、ここでは話を先に進める。

私は、井戸も井戸ばたも、組織としての会も、不可分のものとして、理念の整理よりもなんらかのプロジェクトの継続を考え、上総掘り技術の再習得のために、井戸掘り師匠の近藤さん無しで、独力で井戸掘りをやってみる事を再優先課題として提案し続けていた。

1984年春、当時、小池浩一郎氏が水車の縁で知り合い下宿していた、東京都羽村町(現羽村市)の中野一明氏の協力を得て、上総掘り実習が実現した。

師匠抜きでの素人井戸掘りは、早速つまづいてしまう。
上総掘り初心者が必ず犯す失敗。掘り鉄管が地層に食いつかれて抜けなくなってしまったのだ。道具(掘り始めに使う短い立入鉄管という道具だった)の回収はあきらめ、井戸は掘り直すことになった。

そもそも多摩川の河原の砂礫層を、上総でも柔らかい地層の小櫃流域の道具で掘り抜くのは無理な話だった。
そこで、近所で水道工事店を営む志村一義さんという元上総掘り師の存在を知り、指導をお願いした。

志村さんに砂利を砕いて掘るのは鉄管では無理な話、こんな道具を使ったと簡単な画を書いてもらい、さっそく自力でつくることになった。

上総掘りの道具は売ってない。最初の上総掘り道具一式は袖ヶ浦の近藤晴治さん直伝のもので、近藤さんの道具をつくった鍛冶屋さんに造ってもらったものだった。
誰かにつくってもらうのでなければ自分で造るしか無い。本来フィリピンの田舎でも造れる道具というのがコンセプトだったので、今回は自分たちで造ることにしたのだ。

鉄の棒を焼いて鍛えれば道具はつくれる。鍛冶屋未経験の我々に不安は無かった。

鍛冶屋は炭が必要だ。都会の大学生にはいまの時代に木炭が売っているという認識は無かった。

炭を焼くことになった。伏せ焼きである。杉浦銀次郎さんの日曜炭焼き師入門を見ながら焼くことにした。木は多摩川の河原から流木を拾ってきた。

最初の炭焼きは失敗だった。流木は乾きすぎていて難しい、大きい木を割るのもたいへんだ。

雑木を伐り出して炭にするほうが良い。

中野さんの知り合いの山から木をもらえることになり、青梅の山へ出かけた。

山に分け入り、切っても良い木を選び、手鋸で伐採し人力で出す。

直径5cmほどの木だが、急斜面での伐採搬出はたいへんな重労働だった。炭焼き用に長さを揃える。

近藤師匠直伝のよく切れる竹鋸で、気持よく切り続けるうちに、ついに鋸を折ってしまった。

こうして炭が出来、鉄棒は井戸掘り道具のようなモノにはなったけれど、結局井戸は完成しなかった。

井戸掘り実習の失敗の記録。

そのとき、私はこれが林業との出会いだとは思わなかった。

もし、これは林業だと知り、林業についてもっと知りたいと思い、多摩の林業家との出会いがあれば、私は、失敗に終わり将来の見込みも全くない井戸掘りのまね事をやめ、林業に転向していたかもしれない。

しかし、井戸掘りへの情熱は冷めなかった。

それは、失敗の回復というだけの思いでしかなかった。

山での伐採仕事は強烈な重労働だったけれど、なぜか井戸掘りよりも爽やかな気持の良い仕事だった。

生木の切り口の香り
肩に食い込む重さ
いまでも覚えている感覚だ

でもそのときは出会いとも思わなかった。






Yahoo!ブックマークに登録 Google ブックマーク
clip!