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    [[yuni’s 有為記/2005-02-22]]
    
    https://www.facebook.com/yunikayama/posts/10215485544961607
    
    高校時代の「標語」だった。
    
    生徒会の無い高校で、全てを1から創り上げなければ、何の学校行事もできない環境だった。そこで、文化祭をはじめとする生徒の自主活動の目的として、しばしば私たちが使ったのが、主体的自己表現というコトバだった。
    生徒会の無い高校で、全てを1から創り上げなければ、何の学校行事もできない環境だった。そこで、文化祭をはじめとする生徒の自主活動の目的として、しばしば私たちが使ったのが、主体的自己[[表現]]というコトバだった。
    
    意味はよくわかってなかったような気がする。主体とは何か?と先輩たちに再三問われたものだ。私たちの一学年先輩たちまでは、そこにいわゆる[[階級意識]]を持ち込むべきだと考えていた。私たちはそれを断固拒否した。
    
    勝手気ままに何をやってもいいということではない。誰かに言われてやるのではない、いまここに生きる自分たちが、あえて、いま・ここで表現したいと思ったことを、ひろくうったえること。主体とは大げさに言えば、社会の中に生きる自己というようなものだった。
    
    そこには、何らの法則もなければ使命もない、歴史形成主体などという意識はいらない、ただ日常の素の自分自身と仲間たちがあって、そこから生まれてくる表現(いいたいこと)。
    
    もちろん当時そのように分析していたわけではない。大学時代になって後から意味づけしたことだ。
    
    表現とは誰かに従うのではない、素の自己表現であり、願わくはそこに一定の社会的な意味づけをしようということだったのだ。
    
    だが社会(あるいは世界)における、単なる私自身というものには、いったいどんな内容が含まれているのだろうか。
    
    [[歴史]]を形成する主体という言葉によって、「[[階級的]]」な人たちが語っていたことを、徹底的に個人レベルにまで分解して、私自身とその隣人たちとのかかわりのなかで、ひとつひとつ具体的に、いまここで何かを創造すること。
    
    高校生だった私が最初に思いついたことを、数年を経て大学生時代になってなお引きずりつつもたどりついたのは、このような素朴な自己意識に基づいた自己表現だった。
    
    だがそこに、生きることのリアリティーは無かった。とくに[[暮らし]]という視点が欠けていた。そして最後には自分自身に内容が無い([[俺たちに内容は無い]])という壁にぶつかってしまった。
    
    創造主でない人間にとって、自己以外に何もないところからの自己表現なんてことは不可能なのではないか。
    

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