バックアップ表示


2 (2018-01-01(月) 15:14:39)
#freeze
ワークショップという言葉には私は特別の思い入れがある。

はじめて私が参加したワークショップと呼ばれるものは、1983年東京世田谷で行われた「アジア民衆演劇会議(ATF)」での演劇ワークショップだった。

アジア各地からの参加者を混じえた、街へ出ての演劇ワークショップではなく、初心者向けに演劇ワークショップとは何かを紹介する、室内での企画ではあったけれど、演劇という表現方法で、身体表現から課題の抽出と脚本づくり、上演まで、ゼロから短時間でつくりあげる。それは演劇づくりというよりは、社会関係づくりの具体的な体験として私には刻まれた。

私がその体験から意識しはじめたは、表現空間が現実から切り取られた劇場にあるのではなく、現実生活そのものが表現であるような表現方法を、その場にいる人々によってつくりあげることができないかということだった。
民衆演劇という言葉は、どうしても演劇という表現型式を連想させる、むしろ民衆文化というほうがより自分たちの現実に近いのではないか。そんな議論を経て、当初は演劇集団がリードしていたと「民衆演劇ワークショップ(PTFJ)」という団体名を、役者ではない普通の生活者の集まりとして「民衆文化ワークショップPCW」と変えて、八坂村へ移住するまでの約10年ほど様々な活動をしていた。上智大学の村井吉敬ゼミを一年間乗っ取って全部ワークショップにしてしまったり、ワークショップ型式で作詞作曲から演奏までを試みたり。


そのころの私は地域社会にも生産組織にも所属しない、ノマド的な自由身分だった。そこが生きるうえで一番の不満要素で、どこかに着地して生産活動のなかで生活したいと思うようになり、まず場所としての信州八坂村へ、そして林業という経過をたどることになる。生活に埋もれながらも、課題は表現であり続けた。だから手軽な方法としてパソコン通信を使って発信をはじめた。でも、やりたい事の本質は自分ひとりによる表現ではなく、あいかわらず生産活動が表現であるような事だった。

Yahoo!ブックマークに登録 Google ブックマーク
clip!