山で働く者には、木を伐ったり、藪を刈ったり、道を造ったり、そんな作業それ自体を仕事として評価されたいという思いがどこかにある。巨大で困難な作業を、知恵と工夫と汗と涙でやりとげることは、素晴らしいことだ。でも、その作業自体は全体としての仕事の一部でしかない。
ある部分を任され、それを誠実に担うことは、純粋な職人的現場主義として、異論を差し挟む余地が無いほどに正しいけれど、それによって作業をやりぬく力をつけることはできるけれど、残念ながらそれだけでは、価値を生み出すことにならない。
残念ながら、営業であったり、交渉であったり、さらには政策まで含めた経営という面倒な仕組み無しに、どんな誠実な作業も評価することができない。
経営なんてことを気にせず、純粋に現場だけをやりたい職人気質には、生きにくい時代だけれど、それが人間の社会で生きるということなのだ。
蜂や蟻の社会では、部分として働く者たちを、集めた全体をひとつの個体としたような、全体型社会が成立している。しかし、人間は、社会的動物ではあるけれど、同時に、一人ひとりが個体であり、いちいち独立して存在を主張する生き物だ。
純粋な現場主義における、純粋作業を成り立たせるためには、組織としてではなく、個として全てを完結するような、仕事の組み立て方をしなければならない。
そこにあっては、損得も、利害も、収益も、経営も存在しない。
そうした純粋作業は、理想的な自給自足の自立した個人によっては、原理的には可能だけれど、現実的にそのような在り方は不可能だったはずだ。
実質的には奴隷状態だった封建制下の職人が、その限られた職域において完全に純粋な作業=仕事という状態を実現できていた可能性もあるけれど、そこにおいても、仕事の自発性には限界があり、取引や駆け引きが皆無だったということは考えられない。
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