ワークショップという言葉には私は特別の思い入れがある。
はじめて私が参加したワークショップと呼ばれるものは、1983年8月に、東京世田谷で行われた「アジア民衆演劇会議(ATF)」での演劇ワークショップだった。
私が参加したのは、アジア各地からの参加者を混じえた、街へ出ての演劇ワークショップではなく、初心者向けに演劇ワークショップとは何かを紹介する、室内での企画ではあったけれど、演劇という表現方法で、身体表現から課題の抽出と脚本づくり、上演まで、ゼロから短時間でつくりあげる、見事に組み立てられたプログラムだった。
それは演劇づくりというよりは、社会関係づくりの具体的な体験として私には刻まれた。私がその体験から意識しはじめたは、表現空間が現実から切り取られた劇場にあるのではなく、現実生活そのものが表現であるような表現方法を、その場にいる人々によってつくりあげることができないかということだった。
民衆演劇という言葉は、どうしても舞台演劇という表現型式を連想させる、むしろ民衆文化というほうがより自分たちの現実に近いのではないか。
何の変哲も無い海岸の集落をあるいたり、秩父事件の歴史を現地に取材したり、というのは、いわゆるフィールドワークを普通の論文以外のかたちで表現するという試みで、最終的発表よりも、参加者の体験共有を重要視した企画だった。
そのころの私は地域社会にも生産組織にも所属しない、ノマド的な自由身分だった。
私がフィリピンに通うようになってから出会ったのは、マニラでは無く地方都市ダバオで活動する人々だった。民衆文化運動の最前線にいた友人たちは、劇場からコミュニティーへ活動場所を変えながら、社会の当事者としての意識をもって活動していた。
でも、やりたい事の本質は自分ひとりによる表現ではなく、あいかわらず生産活動が表現であるような事だった。
もともと私の舞台上での表現手段は音楽だったけれども、田舎で最初に感じたことは、この自然の中に音楽はいらないということだった。むしろ直接的な労働を通じて身体で知る事ができる表現手段を獲得することが課題だった。
山に入って働きながら暮らすこと、そういう生き方自体を、表現として捉え直すようになったのは、それから18年の時を経た2012年になってのことだ。
忘れていたワークショップという単語を思い出した。
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