「汝は塵なれば塵に返るべし」(創世記3-19)

何も持たずにこの世界に来たのだから、何も持たずに歩きまわり、何も持たずに去って行こう。ただ「私はここにいるよ」とだけ、ときどき言わせてもらうかな。誰も見てなくても、聴いてなくても良い。いま。ここで、私にだけ、話せる事を、あなたにだけ伝える。

基本的に、私は何も持たない。無権利状態。つまり自由な難民。でも独りでなにかが出来るなんて事は勘違いもいいところ。いま・ここに私が生きているということは、皆さんと皆さんのご先祖様と、これから来る多くの者たちとの共同作業。未来との共生が本質的なテーマ。現在とは過去の未来。未来の過去。

土地の所有権や支配権をめぐって争う暇があったら、実際にその土地を活用して少しでも生産をあげる方が良い。決定権をめぐり争っている間に、生産物は競合する生き物に利用され、重力に従って下流に流れ去ってしまう。誰が土地の権利を保有しているかではなく、いかに多くの智慧を集めて活用するかだ。

平和についての訴えをいくら重ねても争いを治める事はできない。争いの根本原因を明らかにする事からはじめるべきだ。例えば国は領土で、人は金で争うように見えるが、根本原因は国家や人というあり方についての理解のズレにあるのだ。争うより先に、自らを省みて何者なのかを問う事からはじめるのだ。

多くの争いの原因には不安がある。確かめていない事を放置していると不安が募っていく。まず足下の確認。脚下照顧。私はなぜここにいてこの事をやろうとしているのか。例えば、私は林業技術者として、なぜこの山に向かい、何をやろうとしているのか。それから、この山とは何なのかという問いを始める。

現在とは過去にとっての未来であり、未来にとっての過去だ。未来は現在からは見えない。しかしどのようなかたちであれ未来は、刻々と現在になっている。未来からは現在が見える。私は自由に未来を思い描く事ができるような気がするが、未来に規定されているのかもしれない。私の思い描く未来に。

塵も積もれば山になる。本当だ。風に吹かれて飛ばされてきた塵が、土に向かって吹いた風に乗り、海に向かって吹いた風に乗り、数千万年積もり積もって山になる。海底は山になり、山は洗われて海に流れ去る。そんな時間の隙間に木が育ち、森になる。たまたま森に人が来て、伐ったり植えたりを繰り返す。

本当に自由な研究がやりたくて、毎日見ていた三沢川の源流を遡ることにした。最初の水の一滴を求めて、黒川の谷戸のいちばん奥まで、細いせせらぎを追いかけて、道なき道を這い上がって行った。やっとたどりついた源流、その先にある尾根に這い上がると、目の前に広大な造成地が。多摩ニュータウンだ。

「山は横山 川は多摩」と小学校の校歌にうたわれていた。川は誰のものでもないが、山には所有者がいる。所有と言っても持って歩く事はできない、土地の所有という、いわば約束事だ。その決まりに従って、土地の所有者は法の範囲内でなら、何をしても自由だ。多摩の横山はこうして新しい街になった。

多摩丘陵が宅地開発された事は、たしかに心の傷になっているようだ。しかし、そのことがきっかけで環境問題に関心を持ったわけではないし、あの山を取り返したいと心に決め林業に辿り着いたたわけでもない。基本的に私は受け身の人間なので、そうした変化を黙って受け止めることしかできないのだ。

許すとか認めるとかそういう感覚ではない。ただ在るがままに受け止めるしかない。心がワサワサと落ち着かなくなる。そのように感じる私はナニモノなのかと問いかける。いま何をしたいのか、確かめようとする。

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