本業である林業は、森林づくりと、木材生産という二つの側面を持っている。

森林づくりと言っても、人工林について言えば、いずれ木材を利用するための森林づくりに他ならない。(天然林林業については別に考察する)

木材は主に自分が使うために生産するのではない。売ってお金にするために生産している。しかし私自身は実はあまり多くの木材を使っていない。決して良い買い手ではないのだ。

一番多いのが薪、そして紙だろうか。我が家のリフォームでは、結局かなりの量の合板を使った。無垢材だけでやるのは、時間と経費がかかるし、そもそも自前の在庫では足りなかった。
20年も林業に携わっりつつ古屋の造作を続けているというのに、自宅用に良質の材を充分にストックするだけのゆとりが無かったのだ。

まして新築なんて考えも及ばない貧乏山師生活だ。

もっとたくさんの良い木材を生産し、さらに付加価値を上げるために加工製品も生産して、そんな事を考えることがよくある。

しかし、私自身が、それほど多くの木材を製品を買わないし、家も新築はしない。

良いモノは少しあれば充分だ。良いモノをたくさん買うほどの資金も無いけれど、そもそもそんなにモノは要らない。

仮想店舗で仮想商談をやるというイベントに参加したことがある。木材製品と森林体験企画のふたつの仮想商品をならべてみたら圧倒的に森林体験企画の方が人気があった。モデル的販売というゲームのようなものだったので、買い手の資金力はまったく関係無い。
素直に欲しいものを選んだ結果だ。

いまの時代、モノはそれほど求められていない。需要が無いところにどれほど良いモノを提供しても、結局売れない。

求められているのは、体験とか感動できる物語とか。おいしいモノは人気があるようだが、食べられないモノについては、すでに飽和状態に近いのではないか。

林業をモノづくりのための素材としての木材を生産する仕事として考えると、すでにモノ売りに限界が見えている以上、これ以上に生産しても展望が開けないことになってしまう。

どんなに良い木だとしても、木材自体がそんなにたくさんはいらないモノになっているとしたら、まして特徴の無い普通の木材や、質の劣る材が売れるわけがない。

良い仕事をすれば買ってもらえると考えるのは職人の自己満足だ。

黒曜石をつかって精巧な矢じりを造る職人はすでに何千年も前に絶えてしまったが、その時代に求められるモノをつくる職人の役割はいまでも続いている。

しかし、モノ自体があまり求められていない時代には、モノづくりだけで生きていくという事自体が時代遅れになっているのかもしれない。

いいモノが欲しいと必ずしも断言できない。
モノに溢れた生活。

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