経営に責任を持つ者、すなわち経営責任者の事を経営者と言う
責任者とは、具体的な名前を持った個人の事だ
世の中に多く有る責任能力の無い団体の多くに、職名としての代表者という存在がある。
しかし、経営組織すなわち企業の代表者は、企業という経済活動の社会的責任を負う者であって、充て職としての役割で代表ではなく、その営み全てに責任を負う者でなければならない。
生身の人間が、その個人としての存在をあらわす名前を持って
責任を担う「者」となるのだ
組織論的には、責任は組織そのものにあり、組織の代表者は組織の代表であるという立場・役割によって責任者となるのであって、名前を持つ個人として責任者となるわけでは無いという考え方も可能だ。
集団主義的な組織論で成り立っている組織における責任論では、責任もまた集団に帰属することになる。「一億総懺悔」は日本的集団主義の象徴とされているが、日本社会では良くも悪くも責任を集団に解消する考えが強い。
組織の成功は皆の成功というのは美談だが、失敗も、犯罪さえも皆のモノにされてしまうなら、組織内でモラルハザードが起こればやりたい放題になってしまう。
企業でも協同組合など共同体的な経営組織にあっては、代表者は組織としての人格を表すだけで、責任の実態は共同体そのものにあるという考え方が生まれがちだ。
このような考え方の弱点は、最終的に誰も責任をとらない可能性があるということだ。
経営意思は共同意思として、最大公約数の中に解消してしまう。
創業から間もない時期や、経営が順調な場合は比較的問題は少ないが、経営がうまくいかない場合や経営方針を見直す必要が出てきたときには、共同責任・共同の意思確認だけでは無く、経営責任者が明確な個人としての意思を持って、決断し行動する必要が出てくる。
経営責任は共同責任に解消できないように、経営意思もまた協同性では解決できない場合がある。
「自分の仕事は自分で創る」これは共同経営の出発点においては理想的な理念だろう。
しかし、これでは責任の所在が曖昧になる危険がある。
うまく仕事が創れるうちは良い。経営のことなど考えなくても、お互いに気配りをしながら、日々淡々と目の前の仕事をこなしていれば、うまく回っていく。
しかし共同経営者たちが仕事を創る事が困難になった場合には対策を考えなければならない。仕事を創らない者は組合員の資格は無い、などといくら糾弾したところで、経営問題の解決にはならない。
仕事そのものは順調だったとしても、持続可能性に疑いがもたれるならば、軌道修正をしなければならない。これは重要な経営判断だが、共同経営のなかでこのような意思決定をして行くことには相当なエネルギーが必要になる。
困難を乗り越え経営を持続することなど、明確な経営意思なしに出来ることではない。
困難を乗り越えることができる経営意思は、集団的無意識による共同幻想的な意思ではなく、明確な意識を持った存在、すなわち個人によってかたちづくられる意思だ。
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