• 自分が産まれた産婦人科医院を訪ねてみた。

  • 約30年ぶりに、北海道札幌市に行く機会があった。なぜか自分がこの世に出てきた場所を確かめたいという気になって、母に住所を確認した。札幌の繁華街すすき野のはずれにある田畑医院。白いグランドピアノが置いてある、明るくて落ち着いた待合室。受け付けで突然訪問したわけを話すと、戸惑った様子、しばらくして奥から年配の看護婦さんが出てきて相手をしてくれた。建物も変わったし、院長先生も代替りして、往時を知る人はいなかった。記念写真をとってもらった。

  • かつて母に抱かれて札幌の街へと歩み出したであろうその道を歩きながら、産まれ直したような気分になってみた。

  • もし自殺を考えている人がいたら、ぜひとも自分の産まれた場所を訪ねてみることをお薦めしたい。いや状況によってはお決して薦めできないように変わってしまっているかもしれないが、それでもこの世に出てきた場所を確認してから死んでも遅くはない。

  • 私は単純に「死ぬまで生きる」ということしか考えていないので、よほどおかしな薬物にでも毒されない限り自ら死を選ぶということは想像できない。しかし、人間、産まれてきたという事実を受け止めるには、ある程度の年月が必要な気もする。数年前だったら決して来たいなんて思わなかった場所だろうから。

  • 現実に産まれ直すということはできないけれど、まだこれから先も生きていくとしたら、生き方を軌道修正するということはできるはずだ。

  • ありのままの自分を受け止めるとか、自由に生きるということを、必ずしも肯定せず、複雑怪奇な今・ここの自分の在り方を、是とも非ともせず。右足の次に左足を前に出すことだけを考えて、日常の連続を生きてきた私だが、かつて圧倒的に「非日常」な瞬間があった、それはこの世に出てきたということだ。

  • いまの日常の歩みを断絶し、右足を前に出したその次に左足を横に出してみる、突然歩みを変えるということは勇気のいることだし、転倒する危険もおおきいけれど、体力があるうちにやってみてもいいかもしれない。

  • この世に産まれてきて、現に生きているという事実を肯定するしか無く、自ら流れを変えることはせず、ただ流されるのではなく流れそのものとなって生きる。積極的に過去はふりかえらず、遠い目標もたてない。そいういうスタイルが私流だと思ってきた。自由なんてそんなに簡単なものではないのだ。

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