2016-2-13[土]

欅(ケヤキ) 木偏に擧(挙) 

まさに手のひらを開いて上ているような姿を表している。

山の自然樹形では、しなやかな曲線を描く枝ぶりなのだが、街の欅は強度の(無理な)剪定をされても、勢い良く枝を伸ばして樹形を取り戻そうとするので、余計に一所懸命に空に手を開いたようなかたちになる。

なぜ、あれほどに、街の欅は傷めつけられ、それでもなお枝を伸ばすのだろうか。

樹木の生存空間として地上には樹冠、という広がりがあることは、よく見れば誰でもわかることなのに。

地下には根系が伸びている事もすこし観察すればわかることなのに。

都市では、まるで幹の存在しか許されていないような木があまりに多い。

最低でも、樹冠の内側には家を建てるべきではない。

どうしてもそこに家を建てなければならないなら、大きな木は伐って必要なら小さい木に植え替えるべきだ。

枝を落として、頭を留めて、幹だけは残して、木を伐らなかったという言い訳。

本来樹木を活かし樹木と共存して暮らしたいなら最低でも樹高だけ離れて家や道路を配置する。

もしも木を植えるならば、その木の樹高がどのくらになるかを考えて、植える場所や樹種を選ぶ。

都市計画で建物に建ぺい率や容積率の制限をするように、都市においては樹木の樹冠や樹高を意識した配置、樹木とそれ以外の構造物の密度管理と空間配置を考えるべきではないか。

木とのつきあい方のわかっていた時代には、樹冠の内側に家は建てなかった。家の南側、樹高の2倍以内には木を植えなかった。

あえてそこまで木の近くに家を建てる、家の近くに木を植える場合には、その木と一体になって暮らすという事を受け入れる覚悟ができていた。

そのくらい木は価値があった。

本当に落ち葉が欲しかった。

そんな事はあたりまえ過ぎて、文章に残して伝えられる事も無かった。

それが、現在の都市における樹木と人の不幸なかかわりにつながっている。

屋敷をとりまく巨樹のまわりに、後から住宅地が出来てしまい、落ち葉や枯れ枝が迷惑ということで、無様に強剪定されたあげくに、伐られてしまう。

そんな不幸な事が起きるなんて想定されていなかった。

何百年という年月、屋敷を守り、落ち葉を供給してきた巨樹が

ほんの数十年の人間の無知と無理解の結果として失われる。

都市における樹木と共存という文化はこうして途絶えてしまう。

残念ながら手遅れだ。

でも、600年の木を一気に伐ることなど、都市の現代人には出来ない。

悩み苦しみながら、少しずつ、伐ってゆくのだ。

その都度、都市文明に生きることの痛みを味わいながら。

それでも、なお、この木を守りたいと言うのなら

これから数十年かけて、木を伐るのか、人が立ち退くのか

そのせめぎ合いに正面からとりくむだけの意思が必要だ。

もはや、所有などという概念を超えた、時を超えて生きてきた存在

失う事の痛み、維持できないことの情けなさ

伐って活かすという言い訳。

材を使い、味わい尽くすという知恵と技。

他人事として論評する事はできる。

むしろ、するべきことでもある。

でも、そこに立ち会ってしまった者として、

泣き出したい気持ちを抑えて、何を語りはじめようか。

木は植えて育て、伐って使うのもだ。

伐るからには、理由が必要だ。

そして、伐った分だけ、また育てなければならない。

いまから木を植えて、600年育てるような街づくりをできるなら。

はじめてみようではないか。

次世代への継承さえもおぼつかない現代社会

はたして600年後を見据えた地域づくりなどできるのか。

持続可能とは、そのくらいの時間軸において語る事。

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