目的意識とか夢や希望など

つまり自らの行く末について考えるということが、なかなかできなかった。

将来こうなったら良いという想いがなかったわけではない。

でも、それは口に出して言えることでは無かったし、それゆえ自分にとって目標にするべきことでもなかった。

右足の次には左足を出す。そうすれば前へ進める。それだけを考えれば良いのだ。
そう言い聞かせていたような気がする。

しかし、子どもは夢を持たなければいけないのだ。それで表向きには「大人受け」の良いことを言っていた。

小学校時代なら「科学者」になりたいと言っておけば、そのころ理科がちょっとだけ良くできたから大人は喜んだ。それに親の跡を継ぐように聞こえたから、誰も文句は言わない。もちろん「科学者」が家業だったというわけではない。確かに父親の職業ではあったけれど。

本当の夢は別のところにあったはずだ。しかしそれは封印されていた。やがて自分でもわからなくなっていた。

そして、やたらと回り道をする事を好んだ。今やっていることが将来につながるかどうかはどうでも良かった。ただ間違ったことをやったとは思っていない。そのとき必要だと思ったことにとりあえず集中した。右足の次に左足を出さなければ前へ進めないから。というのが唯一の理屈だった。

やるに値する思いついたことは、とにかくやってみる。はじめたことはあきるまで続ける。
それって結局3才くらいの子どもと同じではないか。

大人になって、といっても、自分が大人になったという自覚を持ったのは、30を過ぎてからのことなんだが、少し自分のやりたいことがわかってきた。

それで、それまでやっていた事を投げ出して、新しい生活をはじめたわけだ。

それは何なのか。

私はつまるところ「表現する者」でありたいと思っている。

だが私のメディアは小説でもなく、音楽でもない、技術でもなければ、経営でもない。

私は私をやりたいだけだ。必要ならそれに名前を付けてくれても良い。

それを仮りに「生活」と呼んでみる。この言葉は「夢」「目標」ということには普通およそそぐわないけれど、私にとってはかなり適切な言い方だと思える。

もちろんまだ、それは実現していない。発展途上。夢の途中だ。

あるいは別の言い方をすれば「発声」と言っても良い。

人間の「声」だからそこには「意味」がある。文字通り「声を出す」ということは、実にすばらしい目標なのだ。

というわけで、今の私の職業はかなり「イイセン」に行ってはいるけれど、これを目指しているわけではない。

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