私が師と仰ぐ数少ない人のひとり、ルベン・アビト師が、座禅会で、いつも静かに語っていたことば。
いま・ここ 以外のなにが本質的に必要なのか?
「いま」以外のいかなる時にも、私は存在してはいないのだし。
「ここ」でないどこに私は存在することもできない。
何かを見たり考えたりすれば、それだけで、わたしは「いま」や「ここ」から離れてしまう。すなわち、見る対象や考える事象に、わたしの意識が移ってしまうからだ。
何も考えず、何も見ない。でも、何ももしないということではない。
何もしないで存在しつづけるということは、生きている者にはできないことなのだ。
生きている者は、いま・ここで、常になにかをしている。
意識を、自分が生きていることだけに集中する。
まず「自分の呼吸を感じること」からはじめるように教わった。
呼吸、鼓動、やがて自分の存在、その背後にあるあらゆる存在へ、
でも、わたしは座っているだけでは暮らしていけない。
座禅はいわば一種の練習問題でしかない。
暮らしには、リハーサルはない。いつも、いま・ここが、本番。
いま・ここ というのは、人間が世界にかかわるときの最初の接点
いま・ここについての情報から、知的情報空間への発信と交流がはじまる
カーナビのようにコンピューターの初期画面は位置情報を示す地図になる
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