本論の前にとりあえず
空気は読めるか最近「空気を読め」とか「空気を読めない奴」という言い方がはやっている。
「場の雰囲気」というような意味で使われているのだと思う
でも、本当に「空気」を読むなんて事ができるのか?
「空気」とやらは、結局それぞれが勝手に妄想しているか
あるいはなんらかの操作によってつくり出されているもの過ぎないかもしれない。
結局コミュニケーションにおける「空気」と呼ばれるものは
経験の積み重ね以上のものではない
常に同じ(ような)「場」を共有している仲間どうしなら「空気」についても共通認識が生まれてくる可能性はある。
現実にはそんな親しい「仲間」なんて関係はめったに無いものだ。
だからほとんどの場合は仮想の「場」における仮想の「空気」を設定する、いわば仮想の「仲間空間」をつくりあげているだけなのだ。
仮想の仲間なんてものはあくまで仮想であって実態をともなう保証なんてものはないのだ。
誰もが「個」であるという現実から逃げたがっている。
勝手な妄想のなかで、現実逃避の手段として「場」や「空気」を操作して、仮想の「仲間空間」に自分自身を委ねている。
コミュニケーションの基礎を、そのようなあてにならない、まさに「宙に浮いた」ところにおくことは危険だ。
どこかに「悪の帝国」があって、こうした操作をしているわけでは無いと思う。
みんながもたれあって、ありもしない「場」「仲間空間」を勝手に妄想しているのだ。
だが実際に人と人はどのようにかかわっているのか、よくよく考えてみたい.
コミュニケーションはあくまで、「私とあなた」の間からはじまるものなのだから。
「天の声」はそもそもコミュニケーションでは無いのだ。
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