2016-3-28[月]今回の休みはまったく休暇にならなかった。
終わらない仕事を持ち歩いていたし、仕事の事ばかり考えていた。
なんのために仕事をするか?
生活のため?_
自己実現のため?
少なくとも私は、労働時間を切り売りして稼ぐような「労働者」ではありたくない。
そう考えたから、創造的な仕事づくりを目指し、働き方を意識してきた。
そのためには、私だけでなく、地域で生活する人々がそのような働き方を実現できるような仕組みづくりが必要だと考えた。
だから、自分の仕事の領域で、自由な創造性を前提とした、ゆるい繋がりによる、仕事の共同体をつくろうとしてきた。
主体性を持った働く者による共同体。
しかも、現実社会の制度にあわせ、対社会的には決して社会運動ではなく、一般企業としての顔を持つことで、自由な共同体であることをある意味で隠しつつ、内部的統制には人格的関与を極力避ける。
対外的な責任を全面的に引き受けつつ、内部的権限は行使しないという立場をとってきた。
その結果というような結論めいた事を言うにはまだはやいけれども、現状としては責任が曖昧なまま、自由を行使する力の強い者による身勝手な統制が発生している。
大きな声を出して主張する一方で、声を出させない者の存在を無視する。それは原理原則的には間違っていないけれども、自由な意思を前提としつつ、最終的責任を表に出さない事で曖昧にしてきた、組織運営の甘さの現れとも言える。
すべての結果責任を黙って引き受けてきた事が、いまのところ良い結果になっていない。
現状の集団を構成するほとんどの者たちは、自らの希望や目標、意思といった主体性よりは、人との繋がりや人格的依存関係によって行動をきめている。
自立した自由な主体という設定は現実的には少し難しかったようだ。
だから、大きな声や強い言葉によって影響されてしまうし、誰に何と言われようが実行を貫く力が無い。
目標や行動規範を明文化したうえで、人格的関係による導きがなければ、たとえ無責任でときに情緒的であっても、言い返す事ができないような強い言葉には、支配されてしまう。
そのような状態を受容しつつも、不満を増幅し、行動する力を失い、自らの主体性を貶め、そのような環境に支配されてしまう。
当面、方針を転換して、
責任者の権限を明確にし、意思と論理を主導する人格的関係を築き、行動規範を言葉で示す理念を掲げることにする。
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