歌が好きだから
私は歌が好きです。歌うのも聴くのもすきだけど、本当はうたうのが一番好き。でも人前で歌うってタイプではないので、あくまでも私の歌をひっそりと(でも大声で)歌うというだけのことです。
そして、私の心に突き刺さるような、ステキな歌をうたってくれる人が大好きです。
でも、私にとって、本当に聴きたい!って思える歌い手さんって、とっても少ないのも事実。いい歌手がいないって言いたいわけじゃないんですよ。私の趣味が平均的な流行りうたとちょっとズレてるという事だと思います。
小湊美和さんは、そんな私にとって、最も最近出会った、最高の(可能性も含めて言うんですけど)歌手です。
私がその歌い手を受け容れられるかどうかの唯一のカギは、声そのものです。
つまりその歌声が私の気持ちと共鳴できるかどうかってことです。
こんなかんじで、徒然なる日記風エセーをときどき書いていきます。
(2002.6.2)
消費される音楽
今日、となり町に買い物に出かけて、スーパーのテナントに入っているレコード屋さんの前を通りがかりました。
そういえば、以前からこの店には、ワゴンセールでCDが山積みにおいてあって、最初は3割引きだったのに、5割引きになり、とうとう今日は「なんでも500円!」って書いてありました。まさかこれらのCD、もうじき廃盤という運命なのでしょうか。
以前ちょっと流行ったものの売れ残りの山だろうとふと覗いてみたら、なんと太陽とシスコムーンの"Taiyo&Ciscomoon1"と "Magic of love"があるじゃないですか。実は私ようやく「新米コミファン」になったとこなもんで、太シスのCDは持ってなかったのです。財布の事を心配しつつも、いずれ全部買いたいなと思ってたところだったんで、驚きました。しかも初回限定特典付き。
買い物のあとに残った千円札一枚で、2枚のCDが買えちゃったわけですが、正直な気持ちあまり嬉しくなかったです。
賞味期限切れ直前のお総菜じゃあるまいに、投げ売りセールってのはあんまりじゃないですかね。創った人の気持ちを思うと、そして同じ時を生きて全身でエールを送り続けていたファンの人たちの気持ちを思うと。(私はその当事者ではありませんから、熱烈なファンの人たちがネットのあちこちに書き残した文章から、その熱気を伺い知るだけです)
ポップミュージックというのは、新しさが命みたいなところがあって、新曲を次から次へと出さないと商売にならないし、さらにアーティストそのものも、次々に新人を売り出しては、まるで賞味期限切れのように、それまで大ヒットを飛ばしていた人たちが、後ろにさげられていく。
もちろん、ヒットを出してある程度顔と名前を売れば、あとは地道に良い活動がしやすくなるということもあるのかもしれませんが、
やっぱり、売り込むから売れるという図式はあきらかで、初回出荷ウン十万枚という記録の陰で、在庫をかかえたレコード屋さんが。こうして期限切れ(一定期間再版商品ですから)CDを処分するということ自体を責められるものでもありません。
私は、流行にはいつも乗りおくれていて、とっくに解散したグループや、何十年も前に別の世界へ旅立ってしまった人の音楽にラジオとかで突然出会うことがとても多いのです。
アルバムを聴いて、太陽とシスコムーンの作品は、あのときのファンの人たちのなかでは永遠の作品として記憶されるだけでなく、どんな時代でも新鮮な輝きを放つものだと思いました。とにかく密度が濃い!(アルバムの感想はまたいつか書きましょう)
在庫CDの運命とはまったく違って、コミをはじめソロになった4人は、それぞれ新たな道を着実に歩んでいることを私もそこそこ知っています。これもまた音楽を消費するだけでなかった熱心なファンのおかげです。
いろんな意味で、現代のJ−POPの世界を良く知っている彼女たちですから、この世界で自分が選ぶべき道というのもわかっていることでしょう。
コミの場合も、あえて独りで険しい道を選ぶことで、より自分らしい歌を見つけだすことができると確信しているのだと思っています。
(2002.6.2)
歌が降ってきた
この話は、まったく個人の思い入れ過剰から来た妄想かもしれませんが。
本当に素晴らしく晴れわたった日、いつもより1週間おくれで我が家の田植えでした。
風の音と、水路の水音、鳥のさえずり、ときどき子供の声、そんな静かな午後のことです。
ちょうどそのとき、私は川崎のコミのイベントに気持ちだけ参加しようと集中していて、手は動かしながらも魂が身体を離れて川崎の街へ、、という状態だったのです。
歌は探さなくても、こうしてどこかから降ってくることがあるんだ。そんな、はじめての経験でした。
その昔。雪解けからはじめた、信じられないような重労働の末に、初夏になってやっとのこと、田植えの日を迎えた人たちは、このとっても地味な仕事をなんとも晴れがましい気分で迎えていたに違いありません。しかし、これから秋の稔りまでの間、何が起こるかまったく予想もつかない。一本いっぽん手で苗を植える思いは、まさに祈りそのものだったんじゃないか。そして、そうした思いを支えるかのように、歌があったんじゃないか。
機械作業ではありますが、我が家の今年の状況も、はたして田植えを迎えられるのか不安でいっぱいで、多くの人に助けられてここまで来たという感じだったのです。
私は、民謡については、完全に無知そのものなのですが。そんな連想が次からつぎへと湧いてきて、「歌ってそういうことなのか」って妙に感じ入ってしまいました。
「歌のちから」が人を支えるってことはきっとあると思います。
コミから民謡が連想されるのは、知識としてはあり得ることだけど、そういう連想じゃなくて、「愛のチカラ」「愛しいひとへ」以外でコミのソロは民謡しか聴いたことがないからということでもなくて、コミが発している「歌のちから」が、私に別の世界の扉を開いてくれたような気がしています。
(2002.6.4)
生身の姿
声って、人間の隠すことのできない本質を、さらけだしてしまうものだと思います
その声で表現する歌うってことは、ある意味で恐ろしいことで、私なんか歌うの大好きだけど、とても人前で歌えないって思ってきたのは、そのあたりにあると思っているんです。
だから、歌手の人ってすごいと思ってしまうんだけど、なぜかほとんどの歌に私の心はクールにしか反応しません。
そんな私の心の壁を突きぬけて、心臓に直撃を与えてくれる人も、でも、確かにいるんです。
で、ファーストライブが決まったコミのこと。
(2002.6.6)
ステージの向こうに
最近になって久しぶりに、私自身の歌についての気持ちが高まってきていたことを感じています。
あくまで観客席側にいる私ですが、こと歌に関しては、いつもステージの向こうに気持ちを飛ばしていたいらしいのです。
最近いちばんのお気に入りというか、とにかく聴きまくっているCDは、ローリン・ヒルの"MTV Unplugged"ですね。
そのローリン・ヒルが、長い沈黙を破って出した今度のライブ録音は、グラミー5冠という地位にまで立った彼女の音楽の世界を、自ら叩きつぶして、素の自分自身に対面しながら、なお、歌い続けるという、圧倒的なメッセージを持っています。
CD盤の向こうのMTVのスタジオのその先にある、歌の在処が私の心に届きます。
ローリン・ヒルの歌についても、私にとってのキーワードは、やっぱり声です。
コミのライヴに行けないとか、コミとの距離を嘆いてみた私ですが、ローリンなんてもう全然手が届かないくらい遠い存在です。
コミもローリンも、子育て中のお母さんというのもすごくいいです。
だから、コミが"Road to Grammy"って言っても、別に違和感はないですね。少なくとも私にとっては。
(2002.6.9)
もの悲しい希望の歌
未来の日付で日記を書いてました、今気が付いて訂正。
歌のイメージを追いかけていると、時間って超越してしまうんです。これもちろんイイワケですけど、事実でもあります。
私は、ある時期、歌をうたうのも聴くのもいやになって、器楽の世界に逃げ込んでいたことがありました。特に、日本語でうたったり日本語の歌を聴いたりするのが、全然ダメになってしまいました。歌に意味とか内容があるってことが、どうも耐えられなくなってしまったのです。それで、ほとんどクラシックの器楽(オーケストラよりも室内楽、ロマン派はダメでバロック中心)ばかり聴いていました。
そんなとき、ある海外協力団体の活動でフィリピンの田舎に行く機会がありました。それもミンダナオ島という、反体制的な農民運動などの最前線みたいなところです。
反政府ゲリラの活動地区のすぐ近くで、ギリギリ合法的な運動をしている人たちのやっている、農場に泊まった夜のことでした。
表紙が破れてボロボロになったガリ版刷りのような歌集を手に、徐々にみんなも唱和していきます。何とももの悲しいメロディーで、チューニングが合ってないギターと、各人の個性的な音程のとりかたもあって、それは不思議な世界が生まれました。
山岳地帯特有の熱帯とは思えないような寒い夜、民族衣装の布きれにくるまり半ば凍えながら、いつまでも続く歌を聴いていました。
合法活動とはいっても彼らの活動も常に政府や軍隊に監視されていて、仲間が殺されたりということもしばしばあり、ある意味で非常に危険な状況にありました。
私は、彼らの歌が闘いの歌なのか、嘆きの歌なのかわからなかったのですが、不安と恐怖とかすかな希望という日々、こうして夜に歌うことが、思想とは別の次元で彼らをが支えていると感じました。私と同世代(当時20そこそこでした)の若者が、こんな歌の世界に生きている。それは私にとっては大変な衝撃的な出来事でした。
私は、ある特定の社会運動のための歌のようなものは好きではありません。ただ、フィリピンのこの人たちの歌には、日々の生活から絞り出された生きたエネルギーが感じられ、なによりも美しいメロディーがあり、心に響く歌い方があったのです。
それからしばらく、私は無名のフィリピンの人々の歌の追っかけをやることになります。
(2002.06.15)
誰でもない人
私は、マニラでCDを探すつもりは初めからありませんでした。
その後、何度もフィリピンのいなかに出かけては、普通のおじさんやお兄さんたちの、何気ない日常の歌を追っかけてあるきました。
でも、追いかければ追いかけるほど、歌の姿は薄れ、感動は遠のき、私の手元には、タイプした歌詞だけしか残りません。そして私自身がはまりかけていた「文化の創造」というまやかし。理念が先行した共同作業場から出てくる歌や演劇には感動がありませんでした。
私が「追っかけ」をしていたのは、もちろん有名な歌手ではありません、でもちゃんと一人ひとり名前のある人です。それを「無名」の「民衆の歌」などと呼ぶのは、勘違いもいいところです。
私は、歌うことは大好きですから、いろんなフィリピンの歌を、自分の楽しみのためにたくさん覚えて歌ったりしていました。
やがて、私自身も勘違いにはまってしまい、大学内のイベントやNGOの集会という場ではありましたが、フィリピンの「いなかのうた」や「民衆のうた」をときどき人前でうたうようになりました。なかには自分が主催した集会さえもあったのです。(J
いよいよ私は、最初にミンダナオの山の農園で過ごした夜の感動とは、およそかけ離れたところに来ていることをはっきり感じていました。
歌は感動をつたえたり、新たな感動を呼び起こしたりすることができます。でも、そこには歌い手の生きた姿が必要だと思います。
その後私の個人的生活が変わってしまって、フィリピンの「いなかのうた」とはすっかり縁遠くなってしまいました。
それにしても、自分の変なこだわりのために、マニラはほとんど素通り状態で、フィリピンの素晴らしいアーティストのライヴに行かなかったのがちょっと悔やまれます。フレディー・アギラくらいはちゃんと生で聴きたかったのに。
(2002.06.19)
歌三昧の時
最近私は、起きている時間の全てと寝ていても夢を見ている時は、ほぼ歌に浸って暮らしています。
CDを聴いていないときでも、歌っているか、頭の中で歌がグルグルまわっているか。こんなに歌に対しての気持ちが復活してきたなんて、驚くばかりです。
おかげで、CDを買いまくって完全に予算オーバー、家計に影響が出そうで・・・、
車で移動するときも、CD聴きっぱなしです。去年まで乗っていた車はAMラジオしかなかったので、その影響もあるでしょうけど、やっぱり私のなかの変化が大きいと思います。
今日持って歩いたCD。宇多田ヒカル「DEEP LIVER」、ローリン・ヒル「MTV UNPLUGGED」、決定版日本の民謡、山崎ハコ「Dear my songs」、T&Cボンバー「2nd STAGE」そして小湊美和「愛のチカラ」
もちろん全部聴く時間はないのですが、どれを聴くかはそのときの気分もあるので、一応いろいろ取り揃えています。
それにしても、今日はちょっと濃いィ選択かも。
音楽というよりも、歌です。
うたを追いかけて、追いついたと思ったら逃げられて、忘れて、そして突然降ってくる。
時間の中で生きている人間にとっては、あらゆることが時間の奪い合いになってしまうのです。
でもとくに音楽やスポーツなどライヴというものは、否応なしに自分の時間をそこに預けなければならないもので、そのときに他のことはまったく出来ないわけですから、とっても貴重なできごとだと思います。
私は、いまそのライヴにすごく行きたくなっています。
ライヴというのは、私の時間をその場に預けることですが、決して時間を失うのではなくは、そこで別の時間をもらうことが出来る場だと思っています。
音と声とに言葉(意味)が加わって、そこに湧き上がるうたの世界。そこは、命が生まれるのと同じくらいに、不思議な世界です。
(2002.06.22)
T&C
私は「太陽とシスコムーン~T&Cボンバー」のCDも持ってなかったし、ライヴも行ったことはありません。
コミの歌と出逢って「愛のチカラ」を聴いてからあらためて、コミのファンとして彼女の歩んできた道としての「太陽とシスコムーン~T&Cボンバー」に出逢い、CDやDVDを買いそろえました。(シングルは全部持ってはいないですが)
テレビ東京が映らない田舎なので、ASAYANは見たこともないのですが、民謡歌手出身のメンバー小湊美和という名前はデビュー当時から何故か知っていました。「民謡」という言葉が私にとってかなり心にひっかかるものだったからだでしょう。
あまりTVも見ないのにたった一回だけミュージックステーションで見た「ガタメキラ」がとても強い印象で覚えていて、この一曲で、単なる企画モノのアイドルにとどまらない、かなり実力あるユニットという印象を持ったと思います。
T&Cについて、すごく大雑把な言い方をすれば「学園」というイメージです。優秀だけど決して優等生ではない生徒たちを、うまく引っ張ってまとめあげていったユニークで才能に溢れた先生(つんくプロデューサー)。
ファーストアルバムを聴いた印象では、T&Cは単なるプロデュースの対象ではなく、つんくさんという音楽家(このコトバが案外似合う)にとっての表現手段(楽器?あるいは身体の延長)となり得た素晴らしいユニットとしてはじまったと感じました。
2ndStageではメンバーそれぞれが個性をより鮮明に出してきたのを、うまくコントロールした結果独特のスリリングなノリが生まれて、最後まで一気に聴き通してしまえるアルバムになっています。作家つんくと歌い手T&Cがお互いにかなり刺激しあいながら、とっても創造的な世界に向かって走りはじめていると感じます。
たぶん先生の立場では、できすぎる生徒だった小湊美和をどうコントロールするかというのが、ひとつの課題だったのかなとも思います。文句なく歌はうまいけど、それをどう全体と調和させるか、考えてみれば、民謡って歌は普通一人ですから、コミにとってもチャレンジの連続だったことでしょう。
そして、その苦労の跡が音に出ていないということが、プロデューサーとしてのつんくさんのスゴイところだし、歌手小湊美和のプロっぽいとこだなと思います。
個人的に、T&Cの全ての曲を通じて一番インパクトを受けたのは「ガタメキラ」売上も結構良かったのでしょうか?
ベスト作品賞は「Don'tStop恋愛中」です。ヴォーカルユニットとしての、最高の歌唱を引き出した作品だと思います。特にライヴでは、よりスリリングなかたちで、テクニック的には、時にスキが目立つ曲があるなかで、この一曲だけは特別です。
それは、ユニットとしての存続を危うくするものだったのかもしれないけれど、もっと激しいぶつかり合いの先に、コントロールされた結果でない、もっと湧き上がるようなかたちで生まれる、T&Cとしての本当の個性がもし実現したら見てみたかった。
ライブのDVDは、そのあたりがかなりはじけた感じで、思いっきり楽しめました。何よりもすごっくカッコイイ。ステージと会場が一体になって、パーティーみたいなライヴですね。
私はそこに居なかったのはとっても残念だけれど、今webの各地に残るレポートを読んだうえで、このライブ映像を見ると本当に心が熱くなってきます。
メンバーにとってもファンにとっても、かけがえのない青春の記念として、こんな映像があるということは、本当に嬉しいことです。私も、遅れてきたコミファンの一人として、大好きなコミの思い出の一枚として、宝物にしたいディスクです。
?$@!"2NC5$7?M$Nyuniとしては、もっとそれぞれのメンバーが自分の歌を主張しながらさらにユニットとして磨きをかけられたら、という今となってはかなわない希望を持ってしまいます。
2ndSTAGEのそれぞれのソロもまだ「よくできました」という感じで、何かひとつ突きぬけて来るものがないような。ここでもコミのソロだけはちょっと違って、一見軽いノリだけど実はいちばん難しい歌かも、そして、しっかりエンターティナーとしての片鱗が見えています。
現在の私の立場では、完全にコミファンとしてのバイアスかかっちゃってるので、ソロとしてイチオシは文句なくコミと言っていましますが、T&Cのコミはどこかで自分を抑えている感じがあるし、ユニット内での役割としてのつくりあげたキャラクターに納まっていると言えなくもないような。
ここではまだ歌い手としての小湊美和の本当の個性というのはよくわからないけれど、とにかく輝いていて、楽しそうで、かわいくて、そしてやっぱりすごーく巧い。
私にとって、この場でT&Cを語るということは、結構難しいことです。でも、私的コミ応援サイトのなかでこんな文章を書き始めた以上、避けて通れないテーマでもあって、後に回せばそれだけ、書きにくくなってしまうので、思い切って公開することにします。
(2002.7.1)
ひとかけら
歌も含めた音楽というものが、ほとんど放送やディスク、テープなどのかたちで世にひろまり、生の音だけでしか存在しない音楽なんて、プロの作品としてはまずあり得ないでしょう。アマチュアだって誰かプロがつくったものを、なんらかの録音で知ってコピーをしているわけでしょうし、オリジナルをつくるようになると、すぐに録音するのがあたりまえです。
こうして最初の録音盤ができてから百年あまりに蓄積された膨大な音源が世界中にあふれ。また日々どころか時々刻々新しい音楽が録音され蓄積されていきます。
こうして蓄積された音楽はいわば情報なのですが、ひとたび機械を通して再生されると、まさに音楽として再生するのだから不思議なものです。
しかも、オリジナルのディスクでも不正コピーのものでも、再生された音楽には変わりが無いので(微妙な音質はともかく)音楽を生業とする人にとっては困ったことにもなります。
歌が大好きな私ですが、実はあまりたくさんのディスクは持っていません。いま持っているものだけでも、とても聴ききれないともてあましているからです。
どんなにたくさんの音があふれていても、たったひとかけらの歌の断片だけでも、私は心をうごかされることがあります。それが、たまたま通りがかりの誰かの歌だったとしても、雑音だらけのラジオから微かに聞こえ録音だったとしても、私の心の中にコピーが出来てしまえば、一生削除できないので、持って歩くことになるのです。
録音というものが無かったころは、ライヴしかなかったわけで、心をうごかすような歌があって、歌い手がいて、その歌に心を打たれる人がいて、一生消すことのできないコピーが心に刻まれる。そんなことの繰り返しで歌というものは広まっていったのだと思います。
私の心にはこうして刻まれた歌がいくつかあるのですが、断片的で全曲は歌えないものもあります。私は人のために歌うことはしないので、あくまで個人として楽しむ範囲の(合法的?)コピーです。
たったひとかけらの歌の切れ端でさえ、一瞬を生きるチカラになることがある、一曲フルコーラスあれば、もしかしたら一生それだけでもいいってこともあるかもしれません。
私はCDなんか買わなくても良いと言いたい訳じゃありません。ただ世の中にあふれかえる全ての良い音楽、すばらしい歌を聴けなかったとしても、自分が心から好きな歌、歌い手に出会えればそれで良いじゃないかと言いたいだけです。
(2002.7.4)
一年前に
ちょうど一年前。2001年の7月6日。2週間ほど前に仕事で大けがをして、10日ほど生まれて初めて入院するという大事件があり、やっと退院したものの仕事も出来ずに、家でテレビを見ていたときのことです。
NHKの「スタパdeライヴ」という番組で、小湊美和という歌手が出演していました。
これが、今私がこうしてここに文章を書くことになった原因です。歌が好きで、あんまり好きなので嫌いになったことさえあって、でも自分の心に響く歌声をいつでも探していた私にとって、これはまさに「出会い」でした。
あまり気持ちよくて半分ボーッとしていたので、いまとなっては、最初の歌は何だったのかとか、曲順とかも覚えてないんですが、「愛しいひとへ」たぶん「外山節」?あともう一曲?民謡、それからエルトン・ジョンの曲。
衝撃的出会いという感じではなくて、なんかとっても良い世界を見せてもらったというような、幸福感に満ちた出来事でした。
放送が終わって、直ちにパソコンへ向かい、左手がケガで使えないので、右手でキーボードをたたいて、「小湊美和」「愛しいひとへ」を検索、見つけたのが「愛しいひとへCD化希望BBS」でした。いまそのときの書きコミを見ると、14:01になっています。
私にとってのスタンダード曲として心に刻まれた「愛しいひとへ」そして何とも言えない魅力的でしかも不思議な確信に満ちた歌声。この人はイケルと思いましたね。ただ、漠然とした予感のようなものでしたけれど。
そのときから、私のなかに再び歌への思いが復活しはじめ、そしていろんな不思議なことが起こってきます。それは簡単には書けないのですが。
それにしても、ほんの15分ほどのスタジオライブを聴いただけで、あとはwebにある元所属していたグループの情報だけ。まだソロデビューも決まっていなかった歌手に、自分がどれほど入れ込めるのか。
あちこちのT&Cファンの人たちのサイトは、そんな時期の私にとって数少ない情報源として本当にありがたいものでした。オフィシャルサイトも出来ました。でも、次の歌を聴かなきゃ気持ちは動きようがない。
そんな不安は「愛のチカラ」によって吹き飛びました。こうしてここに私はこんな事を書いて(公開して)しまっているのです。
私は文章を書いてしまうと、どうも生真面目で思い入れ過剰で、ヘタをすると人にプレッシャーを感じさせてしまうようなところがあって、こういうの正直あんまり得意じゃないのです。
(2002.7.6)
民謡っていいかも
このテーマについては、もう少し準備してから書こうかなと思っていたのですが、でも何度も繰り返して書けばいいので、今の私の言葉なりに書いてみます。
私は、歌が好きなのに民謡はかなり苦手でした。でもすごく気になって仕方なかったのも確かです。
民謡ってなんだか恥ずかしい感じがしてたんだと思います。あまりに直接に感じすぎてしまう。理屈とか抜きで、脳でなくて脊髄で反応してしまうような、それくらい自然な存在。そう日本の音階って、私にとっては無限ループに入ってしまうくらいに、いくらでも繰り返して聞こえてくるものなんです。
それがあんまり生の感覚だから、人が歌うのを聴いても、まして自分が歌ったりすると、恥ずかしいような(裸で人前に出るみたいな?)そんな気がしていたのかもしれません。
とくに、女性の声の民謡は、ちょっと拒否反応がありましたね。盆踊りとかで流れてるのは良いんですけど、ステージとか、CDとかも、かなりダメでした。
それが、コミの唄う民謡を聴いて、すーっと入って行けた。それが本当に驚きでした。
実はコミの民謡、そんなにたくさん聴いたことがあるわけじゃないです。でも、コミの声って、それが民謡だろうがポップスだろうが、とにかくとても魅力的で、それで自然と入っていけたのかなとも思います。
それ以来、民謡について、昔から密かに抱いていた関心が解放されて、CD買ったり、本を読んだり、WEBを調べたり、私にとっていちばん欠けていた何かを埋めるような感じで、かなり真剣に追っかけはじめています。
とりあえず「決定版日本の民謡」CD買ってはみたけど、良いのもあるけど、やっぱりダメかなってのもあって、通しでは聴けません。それで、お気に入りの何曲かだけ聴くことにしています。
いちばん気に入ったのが、「新相馬節」2代目鈴木正夫さんの唄でした。これは、曲が良いってだけじゃなくて、唄が良かったということもあります。
それじゃあということで、図書館に行って、もっといろんな民謡のCDを探して聴いてみようと思い立ったのですが、偶然にも置いてあった唯一のCDが「福島県の民謡」というタイトルでした。これがまたかなりいい感じなんです。こちらの方は、あんまりステージっぽくない演出というか、かなり生っぽい雰囲気の録音で、先の新相馬節も入ってました。
もしかしたら、いちばん自分にとって歌いたいうたって、このあたりにあるかもしれない、と、かなり本気で思っています。私が自分のために思いっきり声をあげて歌うなら、もしかしたら、民謡がいちばんいいのかもしれない。
世界中の歌を探して、当然の行き着く先が民謡ってことは、ありそうなことです。まさに「青い鳥」。
ただし、とっても耳になじみの良いメロディーですけど、いざ歌うとなるとかなり難しいのも確かです。これは、やっぱり誰かに教わらないと、自分のために歌うことさえも出来ないのかもしれません。伝統芸能ってものはそれなりに手強いです。
それにあくまで、自分のため、それも例えば田植えとか、農作業の合間とか(機械作業中には似合わない)、山を歩いてるときとか、家事をしながらとか、何気なく歌えればいいのであって、月謝はらってお稽古するまでもないような気もします。近所に民謡の好きなお年寄りとかいればその人の歌をまねるくらいでもいいんですが、野良で歌ってる人なんていないもんなぁ。
(2002.7.8)
音の質と声の質
私は田舎で暮らすようになってから、なかなかライヴに出かけられない生活をしています。もっとも以前川崎市に住んでいたときだって、生の音楽よりはCDやFMなどメディアで音楽を聴くことの方が多かったのです。
実際にはライヴと言われるものだって、一部のクラシック音楽を除けば、マイクからアンプを通ってスピーカーから出る音を聞いているわけです。そこでは、家庭レベルとは比較にならないような、プロ用の高級な機材が使われているのでしょうが、その場に同時に居るということが機械の存在を忘れさせてしまいます。なによりも人間のナマの存在感が圧倒的に強いのです。
ところが、家に帰ってあるいは車の中で聴く音楽は、どうしても再生装置の音です。それで、できればいい音で聴きたいと思うようになって、一時期オーディオに凝ろうかなと思ったことがあります。
結局本格的にオーディオを整えるには相当お金がいること、それ以上にいい音で鳴らすために大変な手間暇がかかることがわかり、ある程度のレベルで妥協してきました。
でも、本当にいいオーディオで音楽を聴くと、いままで聴き慣れていたCDが別物に思えるほどに差があることは確かです。毎日の暮らしに音楽が欠かせない私ですから、もう一度考えなおしてもいいかなと思うこともあります。
かなり高級なオーディオだって、パソコンよりは高いけれど自動車よりは安いくらいの価格ですから、例えば車の買い換え時期を少しのばして、しかもグレードを下げてでもそろえる価値はあるかもしれません。
歌の場合でも、いい装置で聴けばそれなりに、いい感じで聴けることは間違いないと思うのですが、高級オーディオでもヴォーカルはダメってことがあります。
安いラジカセとかで、音質がどうのって機材じゃなくても、歌い手の声質というものは思いのほか生々しく伝わってくるものです。
昨日、電話で歌を聴きました。それは音質的にはどうしようもないレベルです。ギターの音もヘラヘラだったし、ドラムやベースなんてノイズにしか聞こえません。でも、歌声だけははっきりと、かなり生々しく聞こえてくるのです。声の本質はあんなに情けない再生装置さえも超えて伝わってくる。
昔のSP録音とかそれ以前の録音のオーケストラなんてかなり悲しい音で、ほとんど記録としての価値しかないと思うのですが、ほんとに録音の初期、20世紀はじめころのオペラのアリア集なんかでも、ちゃんと歌として聴けます。
人の声を聴くときには、きっと音として聴くだけではない、何か特別な仕掛けが働いているに違いないとかんじています。声は人の存在を伝えるからなのでしょうか。
歌の不思議を思います。
(2002.7.15)
自分の声
私が自分ひとりで歌うのは、他の人の歌で本当に好きだなと言えるような歌にあまり出会ってないからだと思います。
CDとか聴いて、ちょっとイイナって思っても、繰り返し聴くとどうもしっくりこなくなったりして、特に精神的に落ち込んでいたり、ここ一番チカラを出さなければというときになると、どうしても他人の歌では違うなと思ってしまう。特に声。私は自分の声が好きというわけではないし、そんなに良い声だとは全く全然思わないのですが、心の底から自由に思いっきり声をだして歌うことは、私個人的にはかなり癒しになるのです。まあかなり自己中な奴だと言えるでしょう。
幸いなことに、私は人前で歌うということが無いので、ほとんど誰にも迷惑をかけるわけでもないし、田舎暮らしらならではのこの趣味を大切にしています。
これ、まったく作曲とか作詞という種類のモノではありませんから、どこにも書き留めないし録音なんてまさかしないわけで、一回かぎりで消えてしまいます。
最近4才になる子どもと、フリースタイルのラップで掛け合い即興漫才みたいなことをやって楽しむこともあります。これがまた楽しい。生まれる前から本物のR&BとかCDで聴いているせいか、彼はリズム感だけはむちゃくちゃいいので、ちょっとくやしかったりします。
そんな私が、誰か特定の人の姿じゃなくて、もっと空気とか水とか土のようなものとか、何世代もの人々の思いのようなものが歌になってる、「民謡」に最近かなり惹かれているのです。
うたに関しては、こんなにも独りよがりな私ですが、本当に素晴らしいうたに出会った、それがこのサイトのはじまりです。
コミの声は、私にとって最高に心地よい響きを持っています。まだソロとしては、T&Cで1曲と今回のシングル1枚しかないですから、さすがに一日中聴きっぱなしというわけにもいかず、私にとって空白を埋める私の声の役割はまだまだ大きいものですが、もし生で聴いたりしたら、しばらくは声も出なくなるだろうなと想像してしまいます。
歌詞もたった2曲しかないのに、かなり好きですが、歌詞の世界はこれからどんどん広がり深まっていくことでしょう。でも、声だけは、もうひとつの到達点にあると思っています。
歌手の人たちは、もちろん自分の声に惚れていると思います。コミにとってもあの声は心地よくないはずないでしょう。その声がいま多くの人たちにチカラを送りはじめているのです。
コミの歌がさらに世界に広まり、私がコミの声に浸る時間が長くなって行くことは、とっても素晴らしいことだし、たぶんそうなるだろうと思っています。
でもそうなっても、私自身にとっての私の声の意味が無くなるとは思いません。ただ間違いなく、私が歌ううたのレパートリーが増えるような気がします。それは、コミの歌を私が歌うということではありません。私がコミを通して受け取った「歌のチカラ」が、私を変えて行くのです。
(2002.7.26)
町の音
久しぶりに東京に行きました。コミの1stライヴの前日。年に最低一回は参加している学生時代からの仲間の会合なのですが、今期限りで現役大学生メンバーがいなくなるということで、会合の前に久しぶりに学生時代を過ごした部室に行って、荷物の整理をして私たちのオリジナルでないものは全部処分してきました。
そのゴミの中から、なんと私の歌のノートが出てきたのにはビックリ。以前書いたフィリピンの歌のコレクションです。タイプした裏にはびっしりと単語の意味と訳詞が書いてあったりしてかなり真面目にやってたんだなと改めて関心しましたが、あらためて見たらそんなにたいしたものではありませんでした。ついでにアフリカの歌とか当時好きだった洋楽の歌詞なんかもあって、さらにこともあろうに、共同作業でつくった幻のオリジナル曲まで、譜面つきで。
かつて歌の幻想にとりつかれていろいろ彷徨った時代の遺物が発見されるには、なんというタイミングでしょうか。
翌日、久々に東京の街をあるきながら、私がもう後戻りができない程の田舎人になってしまったことを実感しました。
気ままに一人で自分のためだけに歌って過ごすなんてことは、田舎でしか成り立たないことかもしれません。
田舎の空気に似合った歌が田舎に現存してないということは、とてもさみしいことです、でも何にも聞こえて来ないとしても自分が勝手に好きに歌うことはできる。だから極端なはなし田舎にはアーティストはいなくてもいいのです。ところが街ではそうはいかない、歌を聴くのも歌うのも、とにかく大量の人と音の直中でのことなので、だれかが何かを示してくれないと、とても自分ひとりでは歌えない。
ほとんどのアーティストが、東京やニューヨークのような大都会を拠点に活動するのは、そこに音楽産業があるからだけじゃない、そこが常に人と音に溢れた街で、そこでは新しい歌が常に必要とされているからなのです。
私はそんな感慨とは無関係に、シンプルで原始的なレベルで歌が好きです。人間の鳴き声というか遠吠えというか、そんな感覚の一番深いところから発して、心の一番底にとどくような歌。
大都会の人と音楽の洪水の中を歩きながら、私はぼんやりと見え始めたそんなイメージを追い続けていました。ちょうどその時間に、確かな一歩を歩み始めた一人の歌い手がこの街にいることを感じながら。
(2002.7.29)
思い切り歌っても
私にとって歌うということは、自分自身の存在を確認することでしかないのです。自分の歌声が聞こえれば、自分が今・ここに、こうして生きているということが、実感をもって確かめられる。
誰かに歌うということでなく、つまり聴いてほしいという思いがあっての歌ではない。でも、それって愛が無いのかなって最近ふと思いました。
誰かのために歌うのかどうかわからないけれど、ともかく人前で歌う人は、歌に心を込めて、気持ちを伝えようとして歌うのだと思います。そうでないならそれこそ虚しいことです。
もちろんどんな人だって、歌うことには自分のためという要素が必ずあると思います。でも、自分の歌を聴いた人が何かを感じてくれたら、とか、心がやすらいだらとか、元気が出たらとか、伝えたい何かがあるとか、そんな誰かのための思いを持って歌うことが多いのではないでしょうか。
あるいはそういう事を意識しなくても、誰かに向かって歌いたくてしょうがないとか、歌が溢れてきて止められないとか、とにかく黙っていられなくて、それが歌になって出てくる。そいういう歌こそが本当に人に伝わるメッセージを持っているのかもしれません。
考えてみれば、私はこんなに歌が好きなのに、誰かのために歌いたいと思ったことがないかもしれない。楽器を演奏するときでも、この音を届けたいという思いがあって演奏したことがあっただろうか。
実は私、高校時代に仲間とバンドをやっていたことがあります。その頃は鍵盤もギターもできなかったのですが、いちばん好きなヴォーカルは何故か恥ずかしかったので歌えないということにして、ドラムをやっていました。
私はシロウトなんだから、それでいいと思ってきました。でも歌う人や楽器を演奏する人には、私に欠けているものを求めてしまうのです。一方的に。そして、自分が感動できない歌に対して「気持ちが伝わってこない」なんて批評までしてしまう。
私は私の存在さえ確かめられれば、それでいいと思っていたことがありました。それほど不確かな自分自身でもあったのです。
だけど、一方的に愛されたいという思いばっかりで、愛することを知らない。私ってそういう人間なのかもしれない。
(2002.8.7)
歌がいらないときも
しばらく更新しないで、自分が書いたものを読み返していました。いっそ全部消してしまおうかと思ったりもしましたが、この企画をはじめたときに考えていたことのようやく入り口まで来たところだし。恥をさらすことについては無感覚な私ですから、もう少し続けてみましょう。
実はこのコーナーの目的は、とてつもなく回りくどい自己紹介であり、そのことを通じて私がなぜこんなサイトをはじめたのかということの言い訳なのです。
あまりにも忙しいときって、歌とか音楽とかもうどうでもいいって感じになるときがあります。軽い仕事のときならBGMもいいけれど、あるレベル以上に集中しようとしたり、ものすごく疲れてしまったときなんて、何にも音はいらない。
動物的が獲物をねらっているように純粋な集中力を高めるときとか、筋力の限界に近い力を出さなくてはならないときなんかには、人間らしい感情の起伏がじゃまだったりするわけです。
いわゆる精神的なゆとりが無いと、自分から歌を歌ったり歌を求めたりしなくなってしまいます。でも、そんなときでも、歌がいきなり内蔵に突き刺さるように入り込んできたり、突然歌の海の中に放り込まれてしまったり、そういう不思議な事を起こすチカラが歌にはあるような気ががしています。でもそれが必ずしも良いことばかりではないらしい。
最悪の例で言えば、悪夢のようなメロディーが頭の中で繰り返し鳴り響いて出ていかないようなとき。それはもうほとんど病気になる直前の状態でしょう。反対に猛暑の中で汗だくになって働いたときに感じるほんの瞬間の涼しい風のように、それだけで全てが癒されてしまうような、メロディーとか歌声も確かにあるのです。
私は最近その両方のタイプの歌を求めているような気がしています。いわゆる癒し系というのではなくても、とにかく救われるような歌。そしてあえて言うなら悪夢系と言ってもいいような、でも中毒しそうなくらいに繰り返してしまう歌。ただそれはあくまで私の感じ方なのであって、歌っている人はいずれにしても、とっても純粋にかつ自由に自分を表現しているだけなのですが。
(2002.8.25)
いいんだけどね
あまりにたくさんの歌が世界に溢れていて、そのほとんどが一応プロとして活動している方の作品ですから、そこそこのレベルは超えているわけで、うんうんなかなかいいじゃん。ってくらいのものはいくらでも$"$k$N$G$9!#
でも「いいんだけどね」と言いつつ、その先に「なんか足りない」とか「いまいち感じない」ということばかりです。たぶん、私の感性が鈍いという可能性は充分あります。でも、こんなに流行ってるんだから、と思い直して聴いても、でも「よくできました」というハンコが押してある感じで。やっぱり私は世間からはずれているだけなのか
最近大ヒットを連発している人の中にも、私の心に響く歌をうたっている人ももちろんいるのです。だから「流行り歌に良い物なし」なんてまったく思ってません。でも街にあふれかえっている歌のほとんどに私は反応しなくなってしまっています。田舎に暮らしているので、鳥の声や風の音、川のせせらぎ虫の音以外に、何も電気仕掛けの音なんていらない。とまでは言いませんが、やっぱり何にも聞こえないほうが幸せということも多かったりするのです。
静かになれば、私の中に記憶されている歌が、いくらでも聞こえてきます。子どものころの思い出だったり、ずっと昔に行ったライブの記憶だったり、それだけでも充分じゃないかってくらいにいろいろ出てくるのです。
さらに、聴いたことの無い音楽さえも、音のない世界に黙って佇んでいれば聞こえはじめます。精神科でこんなことを話せばちゃんと病気にしてもらえそうですが。病名もらっても全然うれしくないので、まだ行く気にはなれませんけど。
こんなこと書きながらも、相変わらず車の中では歌を聴き続けています。
最近車でよく聴くCD。the miseducation of Lauryn Hill/ Lauryn Hill(定番),Past Masters2,THE BEATLES/The Beatles(4才の子のリクエスト),recerdos/MOCEDADES(スペインの"歌謡曲"),distance/宇多田ヒカル(新作より好きかも),a la media vuelta/Jaraiz(スペイン(カスティリア)民謡、かなり好き),PIONEERS/TOKYO SKA PRADISE ORCHESTRA(同居人の趣味),TUFF GONG /Bob Marley & the wailers(名盤),だいQハラ、イッパイ、ヘッタ/NHKむしまるQゴールド(ロバに乗って行こうが好き),愛のチカラ/小湊美和(もちろん常備)
(2002.9.3)
9.11
2001年9月11日。私はいつものように午後9時に寝てしまって、翌朝5時に起きてからテレビのスイッチをいれました。
あまりに衝撃的な出来事を、テレビの画面で見ているという事態に、寝ぼけた私は納得がいかなかったのですが、やがて言いようのない恐怖を感じました。あのとき感じた恐怖は、いまだに癒えていないような気がしています。
1年たった現在、追悼の集まりでも反戦のデモの場でも、人々は歌をうたうようになりました。でも、あの日あの場所では歌どころではなかっただろうと思います。
人間がやってしまったことの恐ろしさ、そこから始まったさらに恐ろしい日々。テロリズムは人々に「恐怖」を植えつけながら拡散し、さらなる悲しみを増幅しつづけています。
人類は滅亡できないという話を聞いたことがあります。そうかもしれないと思います。想像力と思いやりがあまりに欠如した(あるいは偏った)状態のままで、生き続け(死に続け)るというのはつらすぎます。
私はいまだにwe shall overcomeは歌えない気持ちですが、あの事件の直後から、頭の中ではimagineが繰り返し聞こえてきました。
人間の持っている力の恐ろしさ、それでも生きていくしかない私たちの使命。それがどういうことなのか、私などにわかるはずもありません。全てを閉ざして、何も見ないで特に何も聴かないで生きることは結局ほとんどできないのです。とくに恐怖は無視することができません。せめてできることは、とりあえずちょっとだけ逃げ出す。力を抜いて、だらーっとして、ぼーっとすること。そして息を整えて、想像力と思いやりを限りなく良い方向へ広げていくことでしょうか。
愛が絶望と結びついたとき、悲劇的で破壊的な力になります。だから簡単に愛を語ったり愛を信じたりできないのです。テロリズムもテロとの戦いという戦争も、たぶんこうした絶望的な愛のカタチじゃないか。たしかに愛があるから恐怖もあるのかもしれません。
でも私は、やっぱり愛は希望と優しさに満ちていると、いまだに信じています。恐怖から立ち直るには愛が必要なのです。
私は「愛のチカラ」というタイトルのサイトをつくってしまいました。これはもちろん小湊美和さんの「愛のチカラ」という歌を応援することがきっかけだったのですが、「愛のチカラ」という言葉そのものが、現在の私に必要だったということがだんだんわかってきました。
「愛のチカラ」を信じて歌い、「愛のチカラ」をカタチにするために働き、ときには疲れて、めんどくさくなって、座り込んでしまっても、「あーぁ、愛が足りないのかな」などとふと思い出せば、また立ち上がって歩いていけるかもしれません。
「愛のチカラ」って、体力とか筋力とか精神力とかとはまったく別なところから、いつのまにかわき出してくる不思議なチカラです。
(2002.9.12)
風
歌を伝えるものは空気です。空気が動いて風になったとき、歌はもっと遠くまで伝わります。風を捕まえればそこには何かの歌が混ざっているはず、いい風に吹かれるように、いい歌に吹かれるのが好きです。
でも風は見えません、風は何かに触れたとき、例えば木の枝が揺れてはじめてその姿を現すのです。私は風に吹かれるのが好きです。風に乗ってくるいろんな音や、匂い、そして、何かよくわからないモノを感じることができます。山にいれば、遠くの木々の動きや雲の様子から、どんな風が近づいているのか、見ることもできるのです。風を捕まえようと追いかけることもあります。でも、風は気まぐれで、簡単にこっちへ来てはくれません。
以前ヨットに乗ったとき、風を捕まえることの大切さを体感しました。風に負けてしまえば、そのままひっくり返されますが、うまく捕まえれば自分も風の一部になって一緒に進むことができます。向かい風でも、まともにぶつからなければ、前に進む力にすることができるのです。
私は風になりたいと思ったことがありました。でも風に吹かれる方が好きなタイプの人間は、実はあまり身軽ではないのでした。それでいつしか、風に吹かれる土になろうかと思うようになりました。でも、土のようにしっかりと木や草やあらゆる物たちを支える落ち着きがありません。結局私は、風に吹かれて時々転がる落ち葉のようなモノなのかもしれません。
だいたい人間はそのようなモノなのだと思います。でも、たまに風を起こすチカラを持った人もいます。いや私だって団扇をもってくれば小さな風を起こせるのですが。
風に乗って聞こえて来る歌があります。ときには歌が風になることもあり、そこらじゅうを吹きまわって、どこかへ消えて行くともあります。
遠くの尾根の木が動きだして、風が変わりはじめているのが見えます。ここで待っていれば、私のところまで新しい風は来てくれるのだろうか、それとも向こうの沢筋まで先回りしたほうがいいのか。そしたら、つぎの平らにでるときに、いっしょになって町まで吹いていくことができるのか。
(いかなかきゃいけないってことはないけど、本当に行きたいの?)
The answer is blowin' in the wind.
(2002.09.16)
山のうた海のうた
山の中でくらしていると、この世界は山で囲まれていてその向こうには何も無いんじゃないかという錯覚に陥ることがあります。山を越えて何かがやってくるということは、なんとなくありそうもない。
でも、山は本当に豊かで、特に秋になれば、これだけのものをどうして食べようかと悩むくらいです。だから、人々は大昔から山へ入って暮らしていたのでしょう。山のうたは、なんとなく孤独感や寂しさをただよわせていて、それでいて落ち着いて暖かい感じもするものです。
ところが海の近く特にちいさな島で暮らしている人は、海の向こうからいろんなものが来ることを知っているようです。海で世界につながっていると感じるものらしいのです。旅をした経験しかないのですが、海の近くに暮らせば気持ちはどうしても開放的になるし、うたも世界に広がったような感じになります。そして時に激しい荒波に立ち向かう(あるいは耐える)強さをあわせもつのかもしれません。
私は直感的な好みでいえば、山の歌が好きで、日本民謡で好きなうたもほとんど山間地のうたばかりです。でも、海に対するあこがれのようなものもあることは確かです。近頃注目されてきた島唄といえば琉球や奄美のうたでえすが。日本全国に島の唄、あるいは浜の唄はたくさんあるわけで、そんなうたをもっと知りたいと思うのです。
日本は世界的に見ればちいさな島なのでしょうが、けっこう山深いので、山でくらしていると本当に小さな世界に閉じこもってしまい、海があることなんてとても信じられないくらいになります。
歌がたりない
こんなに音楽が街にあふれているのに、私のところにはなぜか歌が足りない。小さなものが生きて行くには、自分にしか歌えないうたが必要なのに、誰もが歌を忘れてしまった。 あまりに美しすぎる山々の景色に見とれていて、誰とも話すことなく過ぎていった年月、いつのまにか自分の声さえも忘れてしまったというのか 歌は山にあったはずだ歌は川にあったはずだ歌は風にのって来たし歌は人を連れてきた 刈り入れのときは過ぎ長い雪の季節を越えて春の足音がきこえるのに耕す人はもういないのか
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