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脱政治、政治と関わりることをせず、生きることは可能でしょうか

日本という国の諸制度・施策が、選挙で選ばれた国会議員と、そこで選ばれた内閣、総理大臣によって日々決定されるという事実がります。それは建前であって実際の運営は行政機関の職員(官僚)が行なっているということもまた事実ですが、判断し決定するのは、政府の役割ということになっています。

国民、国家、政府というものが、民主主義国家という建前のもとでは、一連のモノとして考えられているので、ひとたび選挙で選ばれた国会~政府は主権者である国民の意思を代表して政策を実行するものとみなされ、その権限が正当化されています。

しかし、国民の過半数を支持を得ているわけではないのに、国会の多数を占める勢力が政権を担っているという現実があり、国民主権という実態はそこにはありません。

まして、選挙公約をまったく反故にした政策決定を強行する政府には、正当性など到底認められるものではありません。

我々が、今日の国家という仕組みを容認し、それにかわる社会システムを構築しきれていない現状では、誰かが政治家になり、議員になり、総理大臣になることが、必要であり、そのような選ばれた人々に国家の運営を任せるという状態が続くことになります。

もっと多くの人々が政治への参加意識を持ち、立候補したり投票したりという、選挙を通じた政治行動にかかわらなければ、国民生活者の意識とかけはなれた、今日のような政治状況を変えることはできません。

日本国家にかわる社会システムを、独自に構築することができれば、そこに生活圏を創り出すことができるという考えもあります。しかし、現に存在する国家は、国家に属さない社会システムを決して容認せず、強制力(暴力)を持って破壊しようとします。

日本国という社会システム(日本国家)をどうするのかという根本的な課題は、我々の生活圏における、独自の経済行動を含めた様々な独自の社会構築の働きによって解決しなければならない課題です。

しかし、現にここにある国家を運営している政府(政治システム)を無視して、社会からドロップアウトして生きることがどこまで可能なのでしょうか。

危険避ける、というのは生物としての根本原則ですから、社会的な様々な規制から真に開放された、素の人間ならば、国家社会からの避難生活も可能でしょう。
危険を避ける、というのは生物としての根本原則ですから、社会的な様々な規制から真に開放された、素の人間ならば、国家社会からの避難生活も可能でしょう。

私は、そこまで開放されていない。多くの人々も同様に、まったくの素の人間として、生きることがなかなかできずにいる。

生物としてのヒトは群れをつくって生きてきました。

あたらしい進化段階として、完全な素の人間になることが、望ましいのかよくわかりません。

私は、群れる動物としてのヒトの延長として、人間社会が有ることを好ましいと感じています。

人間社会が国家社会を形成してきたことは歴史の結果ですが、これからの歴史ではそれが変化していく可能性はあります。

社会にとって必要な国家とはどのようなものなのか

民主主義が中途半端にしか実現していない段階で、民主主義の後の社会を構想するのはまだ無理があるかもしれません。

政治行動をあきらめるべきでは無いというのが私の結論です。

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