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所有 ないしは所有権 という考え方については、大いに疑念がある。
ある物を、専有・支配し、自由に使用・処分する私的な権利と言われるけれど、
自らについて、どうすることもできない、私((この文章ではあえて主格として用いられる"私"という表現を使っているが、内容的には個人あるいは自己と言い換えたほうが一般的かもしれない、しかしあえて私という言葉を用いるのは、個人とか自己という対象化された存在ではない、私自身である個体について、私と不可分な自己について語ろうとしているからだ。この表現については曖昧さをあえて含んでいる。概ね文脈から主格つまりこの文章を書いている者としての私との区別は可能だと思う。))(個人)が、私以外の物を所有するということに、いったいどのような意味があるのだろうか。
自らについて、どうすることもできない、私((この文章ではあえて主格として用いられる"私"という表現を使っているが、内容的には個人あるいは自己と言い換えたほうが一般的かもしれない、しかしあえて私という言葉を用いるのは、個人とか自己という対象化された存在ではない、あらゆる主体にとって自分自身である個体について、世界とか自己とかといったようなことでとらえならない、私という不可分な自己について語ろうとしているからだ。この表現については曖昧さをあえて含んでいる。概ね文脈から主格つまりこの文章を書いている者としての私との区別は可能だと思う。))(個人)が、私以外の物を所有するということに、いったいどのような意味があるのだろうか。
一般的に所有(権)とは約束事であり、所有しているという状態(行為)は、思い込みである。
約束が認められなければ、社会的に私が何かを所有している事は意味がないということになるし、
私が全面的にある物を支配しているという、そのような「物」とのかかわり方が、はたして実体的にあるのかと言えば、
私がそのように思うから、私がそれを所有していると思っているから、ということに過ぎない可能性が高い。
短期間に滅失してしまうような物なら、その間に主に私に支配権がある物という実体もあるだろう
しかし、一個人の生存の期間を超えて長期に存続する物を、個人が所有するということは、どのような意味を持つのだろうか。
所有とは社会的、人間関係的、あるいは私に対象として理解される私自身との関係になかにおいて、
一時的に認められた約束、あるいは当座の思い込みでしかない。
そのような文脈において、所有とか所有権という事にはじめて意味があらわれる
その保障や確認、移転の手続きが、現実の経済社会のなかで、重要事項であることは間違いない。
近代社会においては、私(個人)という存在は、世界を私と私以外の物切り分け、そのうえで私自身についても、それ以外の物についても、私(個人)が所有可能であると理解してきた。
その理解(約束事)は個人を雛形にした社会的人格としての法人にも拡大し、集団や法人にも所有という権利が与えられるようになる。
およそ近代的存在者は、所有によって自らを保持している。
私が私であることを、近代人は私が私の身体を専有支配しているということを通じて獲得してきた。
さらに近代人は、自己以外の物を所有することにより、自らを他者と対置し、自我を確立しようとしてきた。
しかし、人はそもそもそのような存在では無かった。
所有という概念が無くても、私は私であり私や世界について認識し、関係することができたのだ。
所有によって私は全面的な人としての私ではなく、分断された被所有物としての個体に変容していく。
人とは何かについての課題として続く・・・