バックアップ表示1 (2013-12-27(金) 21:12:34) #freeze *dialogos 対話 語るということの原点は、誰かに語ること、すなわち対話だ。 対話を通じてしか、ことば((あらゆる表現の中身))は本質的な意味をもたないはずだ。 対話こそが、理解のすなわち[[通じる]]ことの唯一の道だ。 しかし、対話は実際のところきわめて困難あるいは不可能に近いと思われることが多い。通じないといういらだち。 それは、ただ、せっかちなだけなのかもしれないが、生きるのに忙しい人たちは、通じるまで待つことができないのだ。 そこで人は、自分との対話、すなわちmonologosを試みてきた。 >しばしば独話((独白とも言うが))は、 >神((無神論的に言えば存在の根元)) >との直接対話の試みであった。 やがてそれが自我の確立という近代的観念と入り混じり、対話は価値を失ってきた。 コトバは、一方的に投げかけられるものとなった。 その一つの典型的はカタチが書物である。その戯画的なカタチが演説である 多くの人がいても、てんでバラバラに言葉を投げ合っている みんな、他人の独り言をよろこんでいる((現代の芸術のありかたはほぼこれだ)) 世界の混乱の姿 近代に至って本質的に対話は廃れた 同じ言語を使っていても、もはや適切なプロトコル((通じる合うための約束事))もない 詩の原型にも対話があったはず 対話が重層的になった、ポリフォニックな詩
|