バックアップ表示#freeze *なぜ「緑の党」を支持するのか。 支持政党無しで生きてきた私だが、2013年の参議院議員選挙では、はじめて「緑の党」を支持することを公言した。そのあたりの説明をここにメモしておく。 **政治的活動の経歴 私は高校時代「サヨク」的なタイプだった。左翼ではなく「サヨク」と書いたのは、島田雅彦の「優しいサヨク・・・」のような意味での政治性でしかなかったという自嘲的な表現だが、じっさいに、どこかの党派を支持したりまして所属したりということはいままでは一切無い。 1976年~78年の高校時代。神奈川県立川崎高校という場で、まだ残り香的にただよっていた生活感の無い政治性は嫌いだった。一期上の世代まではいわゆる新左翼的な文化を色濃く反映した立て看板やビラがつくられ生徒自治の中心的な活動として、クラブ活動部室棟の自治や文化祭の運営などが全共闘的なノンセクトラジカルを標榜する生徒によって仕切られていた。多少党派的な生徒も混じっていた。 高校2年のとき同期の仲間と、政治性を重んじる3年生主導で運営されることが見込まれた文化祭「柏葉祭」を、先回りして独自に立ち上げようという活動をはじめた。この「柏葉祭を創造する会」の活動が私にとっての社会的意識を持った活動の最初だった。そして最も政治性を帯びた活動でもあった。 文化祭以後も、自分たちの身の丈にあった社会活動として、学校自治とか高校生自らによる学習権といった視点で生徒の自治的活動(自治会は無かった)には積極的にかかわっていた。 そんなとき自己満足的な権威づけとしての理論武装のために、岩波文庫でマルクスや毛沢東など著作を、薄いものから順に読み漁った。(高校卒業までに「資本論」にはたどり着けなかった)またある程度ファッションとして「サヨク」的文化にかぶれていた面が多少はあったという程度のことだ。 当時の左翼的教師を混じえて学校の外で勉強会を開いたこともあったが、そこは見知らぬ党派の人間がいるような場ではなかった。彼らは我々をオルグしようと思ったのかもしれないが、それは党派的な意味でのオルグというよりは、きわめて教育的な内容だった。結局それ以上の進展はなく、学外の政治活動にはまったく乗らなかった。 同級生の島田雅彦はこうした高校生の行動を横で見ていたが『優しいサヨクのための嬉遊曲』には高校生は登場しないから、直接高校時代の我々を題材にしているわけではない。 卒業にあたっての「総括」は、それぞれの生活の場での闘争を創造していくというような 内容だったような気がするが、一度も文書化はされなかった。 「アジア井戸ばた会」の活動でフィリピンの農民運動とそれを支援するNGOと接したときには、彼らの政治的立場(民族民主主義⇔共産主義)についてそれなりに知ることになったけれども、お互いにあえて政治的な部分は避けて現場主義的な立場で協働プロジェクトをすすめていた。 大学では「アジアウイーク」という「開発問題」という視点で社会問題のグローバルな理解を発信する活動にかかわってきた。特別意識化はしなかったがカトリック系の上智大学という場の性質もあり非(反)左翼的な傾向は強かった。 外国人登録者の指紋押捺拒否支援や、反原発デモなど、学外行動の場でも、左翼グループとは一線を画す行動に終始した。 学外では「アジアリンク」という人権抑圧を受けた人々への署名集め等による救援活動にもかかわっていた。これはアムネスティの教会版のような香港での活動に影響されつつも、まったく独自の党派性皆無の活動だった。「アジアリンク」を通じてPARCのような左派的国際連帯運動の会議にも参加した事はある。しかし現場主義者の立場から政治的声明等には無関心を通していた。 NGOではネグロスキャンペーン委員会にも一時期かかわっていたが、あくまでフィリピンでの適正技術普及活動の経験者という現場サイドでのかかわりで、組織の運営自体に積極的関与しなかった。 大学卒用後しばらく社会党比例代表で選出された堂本暁子参議院議員の事務所で私設秘書(=アルバイト)として働いていた時期があり、国政に裏側から身近に接するという経験もした。堂本議員は社会党員では無かったし、ちょうど選挙の無いタイミングだったこともあり、ここでも党派へのかかわりはほとんど無かった。 私自身は政治活動へのそれなりの理解はあったつもりだし、最低限の政治参加として選挙の投票だけは、棄権することなく続けてきた。しかし、特定の政治団体(政党)や政治家を支持すいるということは無かった。 長野県に移住してからは、いろいろな成り行きから選挙運動にかかわった事はある。 知り合いの市議会議員の選挙カーの運転をしたり、八坂村の村議会議員選挙では隣組の一員として動員されたこともある。田中康夫氏の知事選ではポスター貼りもした。八坂村の勝手連ということになっていたが実態組織は無かった。 しかし、いずれの場合でも、自ら政治的意識をあらわす活動としてその候補者(政治家)を積極的に支持するという類のことではなかったので、選挙が終われば彼らとのかかわりもほとんど無い状態だった。 ふだんの生活に入り込んでくる政治性はあまり無かったから、せめて選挙にだけは参加し投票する。支持政党も無いし支持している政治家もいないので、ぎりぎりまでどこの誰に投票しようか迷うけれども、そのときの意思表示として投票は欠かさなかった。死票に成ることは気にしないし、まして戦略的投票など考えた事も無い。 私は国家という共同幻想をあまり重視していない。国家が厳然と存在することは認めるが、自らの生活の場では国家の枠組みを意識しない、地域生活者の共同性に基づいた暮らしの組み立てを基本と考えている。 それゆえに、よほどの事が無い限り、国家権力と特別な対峙関係を避け自らの等身大の領域での暮らしを重視してきた。 しかしその「よほどの事」が、あまりにも次々と起こるようになった。3.11以降のことだ。それでも、私の日常の社会的かかわりは、大きく変化はしていない。 **2013年の参議院議員選挙 2012年の総選挙で自民党が政権に返り咲き、いよいよ国政があぶない状態になってきた。社民党と共産党を除けば、あとはすべて保守イデオロギー政党であり、個々の政治家の思いを越えて、新自由主義と復古的国粋主義が大手を振ってまかりとおるような状況が生まれてきた。 政治的エリート集団または世襲的政治家が国政を占拠し、どんな片田舎でも全面的に国民であることを強制されるような時代が見えてきた。 だれもが「国家の国民」であることが避けられないことになれば、せめて民主国家の国民として民主国家の政治プロセスにも関わることでしか、自らの生活を守ることができない。 そのような状況で迎えたのが2013年の参議院議員選挙である。 この状況では政治的選択がきわめて意味を持つ。 選挙の結果はともかく、どのような選択をしたかというだけでも重要だ。 そこでもう一歩積極的に政治を見回してみることにしたらそこに「緑の党」が見えたということだ。 **「緑の政治」と政党 「緑の党」は国政を担うことを目指すイデオロギー政党だが、自らの立場としては左でも右でも無い。多様性に富んだ持続的循環型社会を目指し、経済発展にかわるオルタナティブを求めるという考え方は、右翼からは左翼的に見られるが、左翼からは「階級性」の欠如と批判される。 しかし「緑の政治」というイデオロギーはきわめてゆるいもので、グローバルグリーンズの大きな政策枠組はあっても、日本の政治状況に直結した戦略はあまり見えてこない。 そんな未熟な(未知数の多い)政策集団(政治団体)が、市民運動から政党に脱皮することが可能なのかこの選挙で問われたとも言える。 そこに私は支持表明というかたちでかかわることにした。正直心もとない気持ちはある。 この選挙で急速に盛り上がりはじめているのは、推薦候補の三宅洋平であって緑の党ではない。では緑の党の他の候補者はどうだろう。 限られた時間であつめた(主にネット上の)情報では、政治家らしいセンス(市民運動ではなく政治活動だという意識)を持っている候補者は、京都の長谷川羽衣子と東京にすぐろ奈緒の両名くらしか見当たらない。どちらも共同代表だから党のイデオロギー的な中心にいると思われる(他の候補者は情報発信が不十分だ)。 じっさい「緑の党」にイデオロギーという言葉は似合わない。「緑の政治」というのは私の言葉だが、いまのところ市民運動的な「政策集」があるだけで、綱領というようなものは無い。 結果は惨敗である。そもそも議席獲得のための戦略がどれほどあったのかわからないが、党の候補者の集めた票はあまりに少なすぎる。マスメディアから完全に無視されたとは言え最初のネット選挙を生かしきれなかった。三宅洋平がいなかったら存在感はほどんど皆無だったろう。 しかし東京で山本太郎が当選し、三宅洋平が主導した選挙フェスは日本の選挙のあり方を変えるといわれるほどの盛り上がりを見せた。そのプラットフォームを「緑の党」が提供したという意味で功績は大きい。(全国比例区と選挙区あわせて10人の候補を擁立するために供託金5700万円を捻出するのは「党」でなければ不可能だろう) 山本太郎に投票した人の多くは「緑の党」を選ばなかった。共産党か社民党なかには民主党や自民党に入れた人もいたに違いない。一般人が戦略的投票などという高尚な考えを持つ大都市東京である。政権の安定を保ちつつなるべく被曝は避けたい、というような層が少なからず居るに違いない。
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