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    労働だけで事業を構成することは可能だろうか。
    
    経営も労働の一形態であると見なせばそれは可能であるように思える。
    
    しかし、現実的に経営者が労働者を兼ねる(作業員を兼ねるという意味ではない)ことが、どこまで可能なのか。
    
    意思決定と責任。役割と権限。共同性と個。
    
    代表者=経営者では無いという内部統制と、代表者=責任者という社会規範との関係。
    
    
    自動車部品製造を請け負う工場を、労働者協働組合で運営することは可能かもしれない。しかし自動車製造という事業全体を、労働者協働組合で運営することは可能だろうか。
    
    自動車の製造という現代では巨大企業によってのみ行われている事業も、もともとは個人的な興味から発した発明を発展させた事業であった。株式会社として多くの資本を集め、いまでは自動車の製造自体よりも、株主の利益に重きをおくような傾向があるとは言え、自動車製造という企業理念を放棄するまでには至っていない。
    
    このように、典型的に資本主義的な大企業においてさえ、事業の基本理念には、事業者のやりたい事が息づいている。
    
    多くの場合、労働者協働組合は社会性のあるサービスの受託事業を中心にしている非営利の事業体だ。事業を通じた社会貢献という理念と、資本と市場に依存しない協働性という理念が、現実的事業のかたちとして、公的サービスの一翼を担う事業の受託という姿になっていると思われる。
    
    
    さて課題は林業である。
    
    林業とは森林作業および付帯事業の集積では無い
    
    現状では公的資金の投入によって、あたかも公共事業のように行われることが多い林業だが、それは森林の公益的機能と林業・木材業の社会的役割という、市場だけでは評価しにくい価値を、公的に支えるという政策によって実現している、林業のある一部分でしかない。
    
    
    山仕事創造舎は失業した林業労働者によって結成された。自分の仕事は自分で創るというのがそもそもの経営理念であったが、結果として林業だけをやってきた。法人化初期の考え方の基本にはワーカーズコレクティブ的発想があった事は事実だ。
    山仕事創造舎は失業した林業労働者によって結成され、自分の仕事は自分で創るという経営理念のもとで、結果としていままで林業だけをやってきた。しかし法人化初期の考え方の基本にはワーカーズコレクティブ的発想があった事は事実だ。
    
    いまだに限りなく協働労働的理念で動いている企業組合の代表者として。このような在り方が持続可能なのか、熟慮しなければならない時期にきていると考えてはじめている。
    
    私は代表であって社長ではない。いまでも、時給で働く(評価される)労働者である事をやめていない。(型式上は定期定額の役員報酬だが、常に時給換算によって差し引きを記録し翌期の報酬改定によって差額を精算している)
    
    経営の意思決定は、原則として組合員の話合いで行われ、経営責任者はその決定を執行する立場でしかない。あくまで役割としての意識にもとづき、対外的には経営の顔ではあるが、内部統制上は同じ労働者なのだ。
    
    しかし、役割意識だけで、この役割を勤める事がどこまで可能なのか。
    
    創業世代でない後継者に、このような役割意識を継承することが可能なのか。
    
    私自身は、別に会社を設立したり、自伐林業の担い手になったりすることで、組織への奉仕だけでは不可能な自己実現をなんとか達成しようとしているが。
    

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