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    クリスマスはイエスキリストの誕生を祝う日、本来の意味はchristmasという言葉のとおり、キリストのミサであって、キリスト教会のミサ(聖餐式)のなかでも特別な日に行われる特別なミサのことだ。
    
    私は、今年も教会に行かなかった。クリスチャンは最低でも年2回、クリスマスとイースターには教会でミサに出て聖体拝領をすべきだと教えられてている。聖公会の教会では年2回陪餐すればアクティブな信徒(現在受聖餐者)に数えられることになっているが私はアウトだ。
    
    それでも、クリスマスの日に私は自分がクリスチャンであることを意識することができる。
    日本人はクリスチャンじゃないのにクリスマスなんて大騒ぎして・・という言葉が囁かれるたびに、私はお祭りをする資格があることを思い起こすのだ。
    
    子どもの頃の私にとってクリスマスイヴはサンタクロースでもジングベルでもなく、蝋燭の光の揺れるなかで立ったり座ったりしながら、聖句を聴き聖歌を唄うとき。小学校高学年以降は会衆席ではなく、祭壇横か聖歌隊席が私の居場所だった。24日は深夜まで教会で過ごし深夜のミサに出てから帰宅する。
    
    イエスはベツレヘムの馬小屋で生まれたと聖書に記されている。マリアはひと目を憚って馬小屋で出産する。その場に立ち会ったのは夫ヨセフだけ、しかし生まれたのはヨセフの子ではない。後に聖家族と呼ばれる3人の迎えた最初の聖夜は、不安と喜びの交錯する静かな夜だった。
    
    私は教会に通っていた頃に何度も聴かされたクリスマスの物語をいつのまにかこのように理解するようになっていった。それは家族の原点の物語である。聖書の意図するところやまして歴史的な評価はともかく、私の理解するこの物語はこうなる。
    
    子どもというのは親の子ではなく本質的には神の子だ。私たち親に与えられた、私たちの世界に与えられた幼子は、ほんとうに小さく弱い儚い存在だ。しかし、赤ん坊はその瞬間に元気に無垢な泣き声をあげる。世界を救うのはこのようにして誰にも知られず世に現れた神の子なのだ。
    
    このような、私にとっての信仰的、あるいは神学的なクリスマスの意味づけは、私が教会に行かないことの言い訳になっているとも言える
    
    自分の子どもが生まれてからは、クリスマスの聖家族の記念日としての意味を最優先にするために、必ず家族で過ごすことにしている。かつては家族で教会に行くこともあったけれど、ここ数年は自宅で静かに過ごしている。
    
    ちょっとだけ普段と違うささやかなご馳走をつくり、ケーキを食べる。降誕日を祝う聖歌を唄うこともあるが、今年はmagnatuneのクリスマスアルバムを聴いていた。それは私が子どもの頃から教会のクリスマスに慣れ親しんできたことへのノスタルジーでもある。
    
    いま我が家から最寄りの聖公会の教会まで車で一時間で行けるので、特別に遠いわけではないのだけれど。ギリギリまで仕事ばかりしている最近の私は、皆で連れ立って出かけるだけの気持ちの盛り上がりを家族のなかにうまく創り出せない。
    
    クリスマスは華やかな楽しいお祭りの日というよりは、世の闇を深く瞑想し、かすかな光りを求める祈りの日だ。ふだんはまったく祈るという事から離れている私だが、この日ほど世の闇の深さに心を痛めるときはない。その闇が今年は特別に深く冷たい。
    
    3.11以来のどうしようもなさの延長としての政治情況、現にこの国に政治囚がいるという事実を前に、反権力もまた権力志向にすぎない、などと言っている場合ではないのだ、というような意識の政治化をはっきりと自覚している。
    
    
    12月25日をクリスマスにした理由は、冬至祭との融合だとされている。そもそも一年の終わりがこの時期になったのも、冬至を暦の起点に定めたことにはじまるのだ。冬至とは闇・死の象徴であり、光・復活の起点。この日世界はいったん滅び再生する。
    
    死を見過ごしてしまった私たちは再生がはじまっていることにも気が付かないのか。
    

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