いま・ここ
の編集・凍結
Top
/
いま・ここ
トップ
凍結
差分
バックアップ
添付
リロード
新規
一覧
検索
最終更新
yuni
2024-08-03
yunikayama
2024-06-14
2024-06-14
2024-06-10
yuni
2024-04-17
Meinir Gwilym
2024-02-26
AntonReicha
2024-01-10
2024-01-10
2023-12-30
FrontPage
2023-12-09
2023-12-09
2023-10-09
2023-10-08
2023-10-06
2023-10-06
2023-09-13
2023-09-13
2023-09-12
2023-09-12
川路家
2023-08-27
Bluesky
2023-08-04
森の音楽舎
2023-08-03
ふえふきこり
2023-05-04
MikyungSung
2023-04-10
木と森の相談室
2023-01-13
2023-01-13
2023-01-06
2023-01-06
admin
ページを凍結するにはパスワードが必要です。
B
I
U
D
H
[[]]
<br>
--
管理者パスワード:
#freeze [[yuni’s 有為記/2005-02-15]] ---- 私が師と仰ぐ数少ない人のひとり、ルベン・アビト師が、座禅会で、いつも静かに語っていたことば。 いま・ここ 以外のなにが本質的に必要なのか? 「いま」以外のいかなる時にも、私は存在してはいないのだし。 「ここ」でないどこに私は存在することもできない。 何かを見たり考えたりすれば、それだけで、わたしは「いま」や「ここ」から離れてしまう。すなわち、見る対象や考える事象に、わたしの意識が移ってしまうからだ。 何も考えず、何も見ない。でも、何ももしないということではない。 何もしないで存在しつづけるということは、生きている者にはできないことなのだ。 生きている者は、いま・ここで、常になにかをしている。 意識を、自分が生きていることだけに集中する。 まず「自分の呼吸を感じること」からはじめるように教わった。 呼吸、鼓動、やがて自分の存在、その背後にあるあらゆる存在へ、 でも、わたしは座っているだけでは暮らしていけない。 座禅はいわば一種の練習問題でしかない。 暮らしには、リハーサルはない。いつも、いま・ここが、本番。 ---- いま・ここ というのは、人間が世界にかかわるときの最初の接点 いま・ここについての情報から、知的情報空間への発信と交流がはじまる カーナビのようにコンピューターの初期画面は位置情報を示す地図になる
凍結する
凍結しない
タイムスタンプを更新
テキスト整形のルールを表示する
<<
2024.12
>>
日
月
火
水
木
金
土
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
Link
Bluesky
mastodon
threads
twitter
FaceBook
Instagram
山川草木
森林に迷う径
fuefukikori
komi☆.org
山のサンバー
edit
Last-modified: 2014-01-15(水) 22:29:02