2020-7-25[土]

持続可能性と政策の優先順位は背反しない。させてはいけない。トロッコ問題なんて陳腐なフェイク倫理にひっかかってはいけない。
トロッコ問題は「あらかじめ決めなければいけない」と考えるとただのフェイク倫理になってしまう。そもそも事前の判断的に言えば、トロッコの整備が悪いのが問題なのだから。それでも起きてしまったときの判断を「あらかじめ決めておく」ことは許されない。そのとき決めるしか無い。
SDGsで言う「誰一人取り残さない」は、絶対的命題で「こんな人は仕方ない」という例外を一切認めていない。
もちろん結果として「取り残される人」はいるだろう。でもそのことを目標においては想定しない。
この理想主義は「一般常識」には反することだが「常識」では世界は変えられない。
こたえは一つではない。ひとつの基準を定めない。ひとつの矛盾を解決すれば新たな矛盾が発生する。ダブルスタンダードところか、マルチスタンダード。全てを同時に持って歩く。存在は他と区切られない曖昧な境界領域で成り立っている。ここまでが私、という幾何学的な線はない。
私のいるあたり、あなたのいるあたり、というそれぞれの座標はあるけれど、私も、あなたも、そのあたりに曖昧に広がっている。気が付かないうちから、お互いの領域は触れ合い混ざり合っている。気がついてはじめて距離が生まれる。空間が仕切られる。でもそれは幻想。
私も、あなたも、流れの中に生まれた渦のようなもの。
定まらないけれど、かたちはある。決して混ざり合わない個性がある。移動し続ける中心がある。モノとしては一定ではない。生まれ、成長し、交わるところであらたな渦がうまれ、やがて全体の流れの中に消える。
全体の流れ自体が、いつのまにかはじまって、いつのまにか消える。場所もかたちも、大きさも、定まらない。
ひとつひとつの渦には名前がある。意味がある。でも全体の流れに名前をつける意味はあるのか。あっても個性はない、とりあえずの呼び名程度のもの。たとえば物理現象については宇宙とか。すべてを包括する世界とか呼んでは見るが、何のことを呼んでいるのか曖昧でわからない。そんなことに意味は無い。
私(たち)は、はじめに名前を与えられ、やがて自ら名乗る。名乗る者どうしが、出合い、名前で自らを示し、お互いを名前で呼び合う。名前に意味が与えられ、名前にかたちが描かれる。名前と名前の交わり。名は自らの前に掲げた表示、私とあなたはその背後にいる。
名前による空間がソーシャルディスタンス。フィジカルディスタンスと一致するわけではない。

そのとき、わたしはあなたに、あなたはわたしに呼びかける。いったい、なんと呼びかけるのだろう。どんな表情でどんな声でなんと呼びかけるのだろう。

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