https://www.facebook.com/yunikayama/posts/10217112853523304

人が動くと書いて、働くという文字ができているけれど、動いていれば働いていることになるわけではない。
じっと黙って考えている、悩んでいるときも、良く働くためには必要だ。
労働の対価を時間給で計算する仕組みだと、とにかく動いていないと働いていることにならないという思いが出来てしまう。
最近の私の仕事はほとんど考えたり悩んだりしている時間の方が多いので、計算がしにくい。(さすがにもう少しは動くべきだが)
仕事の対価は常に成果と結びつくべきだ。成果とは収益とは限らない。ただ動いてる時間だけを評価するという仕組みでは、真に成果を発揮すること、とくに新しい価値を創造することは難しい。
我々は、雨の日にやることが無い、というような、レベルの低い単純作業員者の集まりでは無いはず。

給与の支払いの仕組みを考えるときに、時給制を基準に考えていると、働いた時間に応じた支払いということからのか。身体を動かして作業をしていなければ、働いたことにならないという観念が生まれがちだ。

作業が仕事の重要な部分であることは間違いないが、そのための仕組みを整えたり、段取りをしたり、後始末をしたり、目の前の課題の先にある、仕事の目的について検討したり、やってきた事を評価したり、という、作業ではないこと、考えたり、悩んだりしながら、なにかしら創造的なことへ向かおうという、試み、も、また重要な働きであり、本当に価値を生み出すような仕事は、こうしたプロセスが不可欠だ。

現場は作業で出来ているのは事実だが。作業だけで出来ているわけではない。作業の仕組み、作業の意味、作業の目的を常に確認し、作業を評価し、作業を見直し、作業を組立て直す。

そのために、すべの現場に関わる者たちは、この仕事にかかわる基本情報を共有していなければならない。作業をしながら得られる情報にが限りがある。そこで、主に情報を集め管理し作業場の外とやり取りをする、管理者という役割が求められる。しかし、本当に作業を有効な仕事にして行くためには、全ての作業者が管理者と同じレベルの情報にアクセスし、仕事の本質を理解しながら作業を進めるべきだ。

働くという事は、単に末端の部品として動く(動かされる)ことではない。
積極的に創造的に、目的を理解し、創造的な意志をもって働くためには、ときに立ち止まり、自らを客観的に観ることが必要だ。

それができて初めて、仕事なのであって、対価を得る価値もそこにある。

動いた(働いた?)時間に応じた報酬などというやり方は、19世紀的機械工場のシステムの名残でしかない。

時給・日給どころか、月給制であっても、基本が労働時間(作業時間)に基づいた考えかたであるうちは、本当に事業に収益をもたらすような働き方は期待できない。

働く者は、事業に収益をもたらさなければならないのだ。

動けば良いのではない。

事業の収益とは、すなわち、新たな価値の創造ということだ。

働くとは、価値を生み出すこと。

Yahoo!ブックマークに登録 Google ブックマーク
clip!