7月16日長野市芸術館で、久石譲指揮、ナガノチェンバーオーケストラ(NCO)の演奏を聴いた。

オーケストラ、ベートーヴェン、久石譲、それだけだったら、この演奏会には行かなかった。今の私の日常ではわざわざ時間をとって、こうした本格的クラシック音楽を聴きに行くという気分になかなかなれない。久石の事は、ジブリ映画の作曲家としては知っているけれど、指揮者としてどうなのかわからないし、よりによってこの猛暑の7月に第九である。いかにも暑苦しい。

なぜそんな演奏会に出かけたのかと言えば、私の一人息子がテナーとして歌っている信州大学混声合唱団が共演するからだった。合唱をやっているからにはいつか第九を歌う機会も来るだろうとは思っていたが、大町第九を歌う会のゲスト参加とかでなく、いきなり久石譲の指揮で歌うというのだ。これは放っては置けない。

https://www.nagano-arts.or.jp/stages/artment2018_180716/

はたして、その演奏会は驚くべき素晴らしいものだった。

久石の自作の Orbis ~混声合唱、オルガンとオーケストラのための、現代音楽という意識をしなくても普通に楽しめる。そして、風の谷のナウシカ交響組曲の抜粋、これは定番の名曲の自作自演というだけでも聴き所だ。いずれの演奏も、明確でわかりやすい響きとリズムが特徴的で、後半のベートーヴェンへの期待が高まった。

さて第九。テンポは快速で疾走するスタイル。それはある程度想定してはいた。まさかフルトベングラーやベームのような演奏をするわけは無いだろう、でもNCOはピリオド楽器の楽団でも無い。どちらかと言えば劇場音楽的なスタイルなのだろうか。

そんな想定は冒頭から裏切られた。一般に混沌の表現とされてきた序奏からして、伝統的な演奏とはまったく異なる解釈、弦と管のリズミカルな掛け合いからはじまるのだ。その後も多彩に小気味良く駆け続け、その勢いは合唱つきの四楽章までさらに加速して途切れることが無い。
ナガノチェンバーオーケストラという小編成を活かした表現として、とにかくきめ細かい緩急とダイナミクス、パートごとにリズムとメロディーをくっきりと際立たてる。
弦の重厚な響きを中心として組み立てるヨーロッパの伝統的演奏とは対極で、この大作がどのようなパーツで組み立てられているかを、音色の対比や緩急、強弱、アクセントなど、旋律線の色付けで、実にわかりやすく切り出している。しかも一貫したドライブ感のある音楽の流れで最後まで駆け抜けたのだった。

よくある田舎の第九の演奏会では、聴衆の多くや合唱隊員は、始めの三楽章を耐えながら聴いている。とくに第三楽章は眠くなる。第四楽章冒頭のフォルティシモの炸裂で目を覚まし、ようやく歓喜の歌の馴染みのメロディーに安心し、聴いた感を覚えて満足して帰る。ところがこの日の演奏では、誰も眠るどころではない。最初から目が離せない聴き逃せない。ふつうの演奏では埋もれてしまう内声のメロディーや木管のやりとりが、くっきり聴こえてしまうのだ。一方で歓喜のメロディーは重々しくなく、さらっと自然にはじまり、合唱の参加で一気に爆発するように盛り上がり、楽器としての限界までオケもはじける。

このわかりやすさと説得力は何なのか?NCOは長野市芸術館の芸術監督である久石が自ら全国の若手トッププレイヤーを集めて結成、クラシック音楽の伝統がほぼ無い長野市を拠点とするオーケストラである。そこには演奏の伝統とか聴衆の期待というような要素を気にかける必要はほどんどない。もちろん満席だったけれど、聴衆は、長野市民、久石ファン、出演者の関係者?という感じで、いわゆるふつうのクラシックファンは少ないようだった。(第一楽章の終わりで思わず拍手が出てしまったことからもそんな聴衆像がわかる)

おそらく久石は一旦スコアをバラバラにし、あたかも自分が作曲するかのように再構築するという方法でこの大曲にアプローチしたのではないか。作曲から200年を経て、幾多の巨匠の演奏に磨かれて重厚な光を放つその一方で、あちこちの部品の動きがもたつき、渋い軋み音が出かけているような古典の名曲を、壊してもういちど組み立てる。
子どもの頃私は、興味本位からゼンマイ式の目覚まし時計を分解したものの、時計の構造や機械装置の仕組み、道具の使い方もわからず、結局元通りに組立て直す事ができなった経験がある。もちろん久石はそんなヘマはしない。音楽の構造を知り尽くし、その仕組みも、道具の使い方も、並の演奏家以上にきわめてきた作曲家なのだ。

このようなオケについていった、合唱は大変だったと思うが、最後まで見事に駆け抜けた。特にわずか2ヶ月の練習でここまで到達できた大学生の奮闘はたいしたものだった。

それにしても、ライブである。その場の熱いノリと勢いで、聴衆も演奏家も燃え上がり、拍手喝采の大興奮。だが、この演奏会は、久石のベートーヴェン交響曲全集としてCD化されるために、本格的なマイクセッティングのもので録音されていたのだ。はたしてこれが静かな部屋でオーディオ装置を通して鑑賞するような演奏になっていたのだろうか。*1

すでにベートーヴェン交響曲全集は3枚のCDとして発売されている。2番と5番、1番と3番、7番と8番、いずれもこのホールでのライブ録音だという。これは聴いてみる価値はある。もしかしたらがっかりかもしれないと思いつつ、その3枚のCDを買ってみた。

いずれの演奏も、その基本スタイルに変わりはない。ライヴならではのグルーヴ感にあふれた快速テンポで、リズムと各パートの旋律線が際立っている。放送局のライブ音源とは違って、楽器のバランスは調整されノイズもまったく気にならないなど現代のデジタル技術ならでは丁寧は編集で音質も鑑賞に耐える仕上がりだ。そして演奏そのものは、まさに緻密に設計されたものだということがあらためてわかる。アンサンブルの乱れも無い。

この全集では「ベートーヴェンはロックだ」というキャッチコピーが使われているが、そもそも「ロックだ」という言い回し自体がかなり陳腐に響くのだけれど、演奏自体は見事に現代におけるクラシック交響楽の演奏のひとつの在り方を明確に主張した、際立って個性的でありながらも、何度も繰り返し聴き込みたくなる魅力にあふれている。

これが正統派と誰もが評価している名盤を聴いていれば、この歴史的名曲を聴くという行為にある意味での安心感を与えられるかもしれない。ベートーヴェンの交響曲というのは歴史的世界遺産である。ちょっとやそっとで理解できるものではないのだから、せいぜい名演を聴いて有名な解説文を読んでその気になってうんちくをたれられるくらいになればそれで満足。そういう聴き方も所詮自己満足な音楽鑑賞において何の問題もない。
しかし、音楽というものは演奏によって繰り返し再創造されるものなのだ。それがいまの時代にもクラシック音楽が存続している意味だ。それこそが、演奏家がただ楽譜の再現する職人ではなく、音楽の創造にかかわる音楽家、芸術家であるゆえんなのだ。こうした再創造の最前線に立ち会うことができるのが音楽を聴くことの喜びであり、久石譲のベートーヴェンにはそんな魅力を感じられた。


いままで発売された演奏について、個別に聴きこんでいくと様々な発見がありそうなので、折を見て加筆、あるいは別記事として書いてみます。

ベートーヴェン:交響曲第2番&第5番
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ベートーヴェン:交響曲第1番&第3番「英雄」
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ベートーヴェン:交響曲第7番&第8番
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