だいぶ前に書いた世界形成

このときは思考が行き詰まっていた。

マルクス・ガブリエルの「なぜ世界は存在しないのか」を読んで、世界は存在しないということにすれば、とても楽に説明がつくことに気がついた。

私は哲学者ではないから学問的に厳密なガブリエルの方法によらずに
もうすこし感覚的に「世界が存在しない」ことについて考えてみようと思う。

最初の断片はツイッターに書いた。

ものがたりを読んでいるのではなく、ものがたりの中にいる。みんな中の人、誰も外側にはいない。外側なんてものは無い。

#世界は存在しない

ここには飛躍がある。140文字という制約のためではない。「世界が存在しない」ことを考える道筋として、私が選んだ入り口の記録だ。

私(たち)の外側には誰もいない。私は世界の中にいるのではなく、私は私として存在している。世界内に有るのではない。私が世界というわけでもない。おそらく私は私とかかわる私でない者たちとともにある。それを私たちと呼んでみる。
私たちは、いちいち関係を結びながら、私たちであり続ける。
例えば物理法則がそこには働いている。
重力とか距離とか熱とかエネルギーとか、そういったモノ・コトが、私と私たちの関係づくりに関わっている。
物理法則だけが働いているわけではない。
思いとか願いとか夢、親しみや嫌悪、愛や無関心が、私が私たちとかかわるときには働いている。
ほかにも記述されていない様々な作用が私たちを形作っている。
それらは、あらかじめ私たちよりよも先にあって、私たちを規定する場として存在しているのだろうか。それとも、私たちが私たちであろうとするときに、はじめて作用するものなのだろうか。

ここから丁寧な論考が無いと哲学にならないのだが。

とりあえず先に進んおくと、
私たちが存在しなくても、私たちのいない場はあるし、私たちは私たちを形成するものによって造られるのだから、私自身を含まない、何者かたちが先に存在していることは認められる。しかしそれは、何者かたちではあっても、世界ではない。
何ものかたちはがあることは確かだが、それが世界ということにはならない。
世界(時間空間的にあるいは論理的に)先にあって、そこの世界の中に私(たち)が現れるということは無い。

(もっと丁寧な証明は必要だがとりあえずラフな論考)
時空的論理的に先立つ何者かたちは世界ではないし、世界はそのものたちの成立の場でもない。
何者かたちが存在する(した)ことは確かだ。存在するための場は形成される。それはあらかじめあった世界ではないし、
世界は無くても何者かたちが存在できれば、あらかじめ世界など無くても良い。
そこに世界が形成されるのだろうか。
その程度のものは世界と呼べるのだろうか。

例えば宇宙は物理的に非常に広大な、物理学論理的には最大のひろがりを持った場ではあるけれど、それが世界だとは言えない。
例えて言えば、地球上で国家が集まって国際社会が生まれたとしても、それは地球上にある様々な社会(人間社会や生物社会)のひとつの現れであって、地球にある全てをあらわす「地球」そのものでは無いのと似たようなことだ。
物理的な地球は宇宙に含まれる天体のひとつであり、このような物理的な存在があつまって宇宙が形成されている。でもそれが「世界」であるとは言えないことは、国際社会と地球との関係に似ている。

私たちは、ものがたりの世界をつくり出すことができる。
その世界の中で起きていることを、外から読むことを楽しむ
それは、私たちの生活している場や想像した場を抽象化して切り取った世界だ。
ものがたりには外側がある。それはものがたりを創り出したり鑑賞する私たちだ。
しかし私たちは、私たちの外側にいる誰かの造り出したものがたりの中にいるわけではない。
私たちは、私たちのものがたり中の人たちだが、外側には誰もいない。そもそも外側など存在しない。私たちのものがたりは、わたしたちが創り出している。

ガブリエルが「意味の場」と呼ぶ場。

私たちのつくり出す場はものがたりの中の人たちによって創出されている。

哲学史的には、大発見であるとさえ呼ばれるこの場は、哲学(学問)をやらない普通の人にとっては、あたりまえの日常のことだ。

哲学をやらない人は、自らを客観視などしない。
常に主観的な主体であるだけで、何かでそれを説明などしない。

教育や社会的規制によって、主観的で主体的な生き方は、社会という場に規定される。

社会には法則があり、それに基づいた決まりごとがある。

社会法則は物理法則のように普遍的な宇宙原理を雛形にしようとしてきた。

それを世界だと詐称してきた。

主観的主体の生活の場を、私たちのものがたりが生み出される場として、私たちの自身の手元に意識化する。これが、この論考の目指すところになる。
世界など無くても、私たちの生きる場がそこにあり、そこに意味があることを再構築する。

そういうコトを「世界」として再定義できるかどうかはわからない。
誰かの内側にある「ものがたりの世界」に私たちはとどまりたくない。
私たちのものがたりを再構築する。それが世界である必要は無い。

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