ワークショップという言葉には私は特別の思い入れがある。

はじめて私が参加したワークショップと呼ばれるものは、1983年8月に、東京世田谷で行われた「アジア民衆演劇会議(ATF)」での演劇ワークショップだった。

私が参加したのは、アジア各地からの参加者を混じえた、街へ出ての演劇ワークショップではなく、初心者向けに演劇ワークショップとは何かを紹介する、室内での企画ではあったけれど、演劇という表現方法で、身体表現から課題の抽出と脚本づくり、上演まで、ゼロから短時間でつくりあげる、見事に組み立てられたプログラムだった。

それは演劇づくりというよりは、社会関係づくりの具体的な体験として私には刻まれた。私がその体験から意識しはじめたは、表現空間が現実から切り取られた劇場にあるのではなく、現実生活そのものが表現であるような表現方法を、その場にいる人々によってつくりあげることができないかということだった。

民衆演劇という言葉は、どうしても舞台演劇という表現型式を連想させる、むしろ民衆文化というほうがより自分たちの現実に近いのではないか。
そんな議論を経て、当初は演劇集団がリードしていた「民衆演劇ワークショップ(PTFJ)」という団体名を、役者ではない普通の生活者の集まりとして「民衆文化ワークショップ(PCW)」と変えて、八坂村へ移住するまでの約10年ほど様々な活動をしていた。

何の変哲も無い海岸の集落をあるいたり、秩父事件の歴史を現地に取材したり、というのは、いわゆるフィールドワークを普通の論文以外のかたちで表現するという試みで、最終的発表よりも、参加者の体験共有を重要視した企画だった。
上智大学の村井吉敬ゼミを一年間乗っ取って全部ワークショップにするという企画は、大学のゼミという型式を組立て直すという挑戦だった。ワークショップ型式で作詞作曲から演奏までという試みでは、集団創作の限界というものを知ることになったし。アジアウィークという大学内企画集団が自ら企画をするということについて追求したワークショップでは「俺達に内容はない」という企画集団の持つ根本的課題をつきつけることで終わった。

そのころの私は地域社会にも生産組織にも所属しない、ノマド的な自由身分だった。
PCWに集う仲間も、大学生やフリーターなどがほとんどで、社会問題への意識はありなんらかの活動をしたいという思いはあっても、自分自身が社会の現実的当事者であることの意識が弱いという弱点があった。

私がフィリピンに通うようになってから出会ったのは、マニラでは無く地方都市ダバオで活動する人々だった。民衆文化運動の最前線にいた友人たちは、劇場からコミュニティーへ活動場所を変えながら、社会の当事者としての意識をもって活動していた。
しかし東京では相変わらず社会問題は自らの外側にある課題でしか無かったし、大学という場では研究者は当事者になるべきではないという考え方が支配的でもあった。
私自身、そこが生きるうえで一番の不満要素で、学問研究の対象としてのかかわりよりは、当事者としてどこかに着地して生産活動のなかで生活したいと思いが強くなっていった。
そこで、まず場所としての信州八坂村へ、そして林業という経過をたどることになる。生活に埋もれながらも、課題は表現であり続けた。だから手軽な方法としてパソコン通信を使って発信をはじめた。

でも、やりたい事の本質は自分ひとりによる表現ではなく、あいかわらず生産活動が表現であるような事だった。

もともと私の舞台上での表現手段は音楽だったけれども、田舎で最初に感じたことは、この自然の中に音楽はいらないということだった。むしろ直接的な労働を通じて身体で知る事ができる表現手段を獲得することが課題だった。
それゆえに、表現ということも離れて、現場に向き合うことになったのだ。
もちろんワークショップというすっかり単語も忘れた。
仕事づくりが目前最大の課題であり、そのための組織化は社会運動のような抽象化されたことでは無かった。

山に入って働きながら暮らすこと、そういう生き方自体を、表現として捉え直すようになったのは、それから18年の時を経た2012年になってのことだ。

忘れていたワークショップという単語を思い出した。

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