音律について気になることすでに書籍やネット上には音律についての研究や考察が数多く出回っている。ここでは、音楽研究者でも演奏家でも無い、ひとりの音楽愛好者のたちばで、理論的というよりは感覚的に、音律にというものについて気になっていることをメモしていく。
きっかけギターの調弦はなぜ合わないのか中学生の頃、ギターを初めて手にしたとき、調弦の仕方によって、響きの違いが出る事に躓いてしまった。すなわち、6弦の5フレットと5弦の解放を合わせるというように、フレットの音と開放弦を合わせていく方法と、開放弦のハーモニックスを使って合わせる方法では、まったく結果が違うことに気がついたのだ。
あらためて、コードを弾いてみると、大混乱。同じCでも、ポジションによって響きが変わるし、そもそもCが美しく響くように調弦すると、DもFもまったく濁ってしまう。
安物のギターだからいけないのかとも思ったのだが、とりあえず適当なバランスをとって響かせる方法を自分なりに見つけだすことにした。
スピネットで遊んで安価な家庭用小型チェンバロとして、東海楽器のスピネットを買ったのはいまから20数年前の事。たった6本の弦しかないギターの調律でも、なかなか納得がいかなかったのだが、60本を超える弦の調律となると、それは納得のいかない事だらけで、それ以来、毎日調律しないとならない楽器とつき合いながら、音律について勉強したり実験したり考えるようになった。
そのころ、すでに平均律以外の様々な古典音律があるということを知ってはいたものの、とりあえず、現代でもっとも一般的な平均律が基本だろうと考えて、平均律で調律することを考えた、ところが、実際にやろうとすると平均律というのは非常に難しい調律法なのだ。 ピタゴラス音律では、いちばん簡単なのは?と言えば、ピタゴラス音律ということになる。
とにかく5度(4度)を純正音程で合わせていく。ただし、最後に一カ所ひどく合わないところが出てくる。これが問題なのだが、この解説はあとで
で、出来た音律はというと、メロディーはあかるくてきれいだけれど、和声が全然響かない。というか、三度がまったく濁っていて耐え難い。
実は、この音律が、日本の伝統音楽の音にかなり近いと感じている。
民謡はこれだととてもかっこよくきこえる。だから民謡にはハーモニーの伴奏はつけにくいのだ。むりにつけるとどうも、民謡独特のキレがなくなってしまう。
演歌系でも、北島三郎なんか、かなりピタゴラス的な歌い方だ。
和声が美しくないと言ったが、実はピタゴラス音率の2度はけっこう素敵だ ミーントーン(中全率)
ピタゴラス音律は、どうにも伴奏に使いにくい。和音を演奏すること自体が困難だ、そこで、次に覚えたのがミーントーン(中全律)だった。
これは、長三度をなるべく純正にするために、5度をかなり狭くした音律で、実際にはいろんなバリエーションがある。
アロンのミーントーンというのが、その原型とされるもので、ひとつも純正な5度が無い。
長3和音が美しい。しかし美しく響く転調の範囲はとても限られている。
この音律は純正3度を多用するために、しばしば「純正音律」などとも呼ばれる。しかし「純正律」と紛らわしい言い方なので注意してほしい。
ミーントーンの魅力は、実はうなりのある5度(4度)にあるような気がしてならない。
ミーントーン5度とよばれる、狭い5度。平均律からはかけはなれたこの狭い音程が、ミーントーンによって演奏(作曲)された音楽に、深い陰影を与えていることは確かだ。
ヨーロッパのオルガン音楽もミーントーンと切り離ない。容易に調律を変えられないオルガン。19世紀になっても、多くの教会オルガンはミーントーンだったらしい。
私が最初に聴いたミーントーンによる録音は、ルイ・クープランのクラヴサン曲集だったが、この独特の響きにとまどいながらも、無性に繰り返し聴きたくなったものだ。おろらくアロンのミーントーンではなく、その後もヴァリエーションによる調律だった可能性はある。
西欧古典ではなんと言ってもスヴェリンクの鍵盤音楽。これはミーントーンでなければ意味が無いというくらいに、ミーントン的に作曲されている。
またモーツァルトもミーントーンがなかなか良い。ただし転調が多い曲では、ところどころ5度を純正にとったほうが、安心して演奏できそうだ。
インドから西へ旅をしたロマ族(ジプシー)が、ピタゴラス律に支配されていたヨーロッパにこのミーントーンの響きを伝えたという説がある、というのをどこかで読んだことがある。
事の真相はともかく、ジプシー音楽の独特な陰影にはミーントーンがよく似合うと思う
フィリピンの歌手たちは、平均律からかなりはずれた歌い方をする人が多いのだが、フレディ・アギラの歌い方なんてかなりミーントーン的だと思う。
整えられた音律英語のwell temperment J.S.バッハの有名な「平均律クラヴィーア曲集」*1で特に知られるようになったのだが、バッハが使っていたのはequal tempermentではないらしい。それがどんな音律だったのかは様々な議論がある。
しかし、理論的な意味での平均律と、welltempermentには決定的な違いがる。
最近いろんな文献を見ると、不均等律という訳語が目立つようになった。平均律ではないということを強調するつもりらしいが、どう考えても誤訳だ。
意図したのは、平均とか不均等ということではなく、全ての調性で具合よく使えるということなのだ。
いい具合に響く音律ということが言いたいのであって、いわゆる平均律だってその延長にあると考えている。*2 ヴェルクマイスターとキルンベルガーバロックの復興とともに、再認識された有名な二つの音律が、ヴェルクマイスターの音律とキルンベルガーの音律だ。この二つの音律は、時代的には150年も離れているし、基本になる考え方もかなり異なるのだけれど、調律作業的には二つの音律はほんのわずかの違いなので、チェンバロの調律を覚えるときに、同時に覚えることができる。
どちらの音律も、調による音階の性質にかなりの違いがあり、いわゆる調性格がはっきりしている。
ヴェルクマイスターIIIヴェルクマイスターの音律*3では、まずミーントーン5度を定められたように配置してから、残りの5度は純正にとっていく。
24の調正すべてで使える、バランスのとれた音律で、現代のポップスやジャズのような平均律を前提に作曲された曲であっても、違和感が少ない。
少々調律が狂ってきても、オクターブを合わせておけばそれなりに響くというのも特徴で、
ただ、なんとなく響きがかたく落ち着きがない印象があり、特にピアノでは平均律のほうが安心感がある。
バッハの対位法的な要素を強く出した作品では、この音律は各声部の輪郭がわかりやすく、聴きやすい。
キルンベルガー第3キルンベルガーの音律でも特に第3法は、ヴェルクマイスターの音律にちょっと手をくわえれば簡単につくれるので、同時に覚えることができた。
しかし、この音律はかなり性格が異なった音律で、平均律とのズレはかなり大きい。
ベートヴェンのピアノ曲には実によくあう。一般にロマン派のピアノ曲や室内楽はこれでいい。しかしポップス系では、テンションが緩い貧相な感じになりやすくあまり使えない
この音律には平均律には無い独特の光と陰がある。理論的に構成された、ピタゴラス音律やミーントーン、構造的な音楽によく似合うヴェルクマイスター律と異なり、この音律は結局は固有の美意識にもとづいて、感覚的につくられている。それはハ長調に特別の地位を与えたということだけでもわかる。
理論家の多くは、キルンベルガー音律の第2を第3よりも高く評価している。その背景にはキルンベルガーが純正律に基づいて音律を構成したという仮説があるようだ。しかし世間に普及したのは第3だった。はたして一部の理論家が言うように、第3は世間に妥協した産物なのかどうか、ともかく普及したのは第3だった。
構造美ではなく感覚美的な音楽世界は、バロック的というよりはロマン派的である。
私自身は、結局平均律でスピネットを調律するのが面倒だったので、ヴェルクマイスターを標準にしていた。キルンベルガーはクセが強く、特に対位法的な音楽や、テンションコードの多いポップ系の音楽には向かない感じがしていた
ふるもとゆうこのハルモニウムところが、キルンベルガーを最近になって見なおすようになった。
それは、木実の森のふるもとゆうこの歌を聴いたときに、本当に20年ぶりに思い出したことだった。
じっさいに何度か生で歌を聴いていくうちに、CDで感じるほどの違和感は無くなっていく。いつの間にか、木実森音律*5に慣らされていくのだ。
たまたま手元にある電子ピアノが古典音律に設定可能だったので、CDのハルモニウムの音を注意深く分析してみた。確かにA=446の、キルンベルガー第3にきわめて近い音律だったのだ。*7
その後、ふるもとゆうこの歌をさらに聴き進むにつれて、彼女の音程感覚はより幅広い自由なものだということがわかってきた。単にハズスということももちろんあるのだが、概ね一定の規則におさまっているので、これはひとつの音律であることは間違いない。
いわゆる平均率平均律は、ひとつの明確な思想に基づいて構成された音律だ。言うまでもなく、全ての音を平等に取り扱い、オクターブの12音の振動比を一定にする。その結果として唸りのない純正な響きはどこにも無くなる。
しかしこれはピアノの調律法として特に20世紀になってから威力を発揮してきた、大ホールで大勢の聴衆に向かって、力強い安定した響きを約束する。現代のピアノ音楽は平均律なくしてはあり得ないと言ってもいいほどだ。
多くの場合、平均律以前の時代の音楽を表現するにもほとんど躊躇無く使われている。それは、平均律以外の音律が存在するということさえも、ほとんど忘れ去られてしまったからだ。音楽史にも広まった発展段階的な歴史観が、平均律=完成された正しい音律、という概念を生みだし、JSバッハが平均律を実用化したという誤解もあって、誰もが疑うことをやめてしまった。
20世紀の特に後半からは、クラシックの器楽も声楽も、平均律的な演奏をすることを求めて技術を磨いてきた側面を持っているし、ポップミュージックはそもそも平均律の時代に誕生した音楽なので、音律について考えるなどということはほどんど無い。
しかし、ピアノ以外の楽器や人間の歌は、そもそも平均律的では無い。
バイオリン族の弦楽器は純正5度で調律するが、音程はまったく演奏者の感覚によってつくれれる。木管楽器は平均律に合わせてつくられるようになったが、アンサンブルでは、結局お互いの音を聴いて心地よい響きをつくるように、音程の調整をする。合唱では、仮に平均律的に歌っていても、響きを重視するポイントでは純正に近い音程に自然に調整しているはずだ。
ギターはどうする
ギターのフレットも平均律のつもりで位置を決めてある。
そこで、ギター製作者は、微妙な調整をして、それぞれ響きの良い楽器をつくっている。
演奏者は、いろいろな技術的な制約や挑戦のなかで、さらに音づくりをしている。
だから私のように*8、C E Gなどの響きを重視して、DやAを犠牲にするというチューニングも場合によってはありえる。
純正律について
音律のゆらぎ
音高(ピッチ)音律は、オクターブのなかの、音の配置の決まりだた、音高(ピッチ)とは、基本となる音の絶対的な基準のことだ。
そもそも、ピッチの基準というのは、いまのように電子的に、周波数を測定することができなかった時代には、数値で表すことが困難だった。
古い時代の音楽が、どのようなピッチ演奏されていたかは、オリジナルのまま残っている当時の楽器や、音叉などから想像されている。それによれば、ヨーロッパの国々のなかでも、統一基準などはなかった。
現代の古楽器(ピリオド楽器)演奏の場では、基準がないと不便なので、たとえばベルサイユピッチとしてA=392を、カンマートーン(バロックピッチ)A=415が使われることが多い。これは歴史的根拠もさることながら、現代の標準からちょうど半音、全音、低いということで、都合がいいから使われているピッチだ。
現代では、一般にA=440Hzが基準と定められているが、これは国際会議で決められたという基準で、普通のクラシックのオーケストラでは、ほとんどA=442くらいで演奏されていて、多くの木管楽器がいまではA=442としてつくられている。(木管楽器はピッチを下げる調整は出来ても上げる調整はつらいので)
もちろん世界の諸民族の間で統一したピッチなんてものは存在しなかった。それが、ワールドミュージックンの誕生で、みんなで440に寄り添うようになってきたわけだ。
私としては、声や楽器が壊れない範囲で、お互いに快適に響くピッチをその都度選ぶということで良いのではないかと思っている。音高調整の出来ない楽器が仲間にいるときは、気温によって変化するピッチに、周りがあわせるしかない。
みんなが簡単に調整可能な場合は、曲や気分によって、高低変化があっても面白い。 *1 誤訳でも定着してしまうと言い換えが難しいものだ *2 音楽の響きの善し悪しの問題は、音律以外の要素があまりに多いのだから。この手の議論に参加する気にはなれない *3 もっとも有名な第1技法3番いわゆるヴェルクマイスターIII *4 古典派の確立するまでの経過的な時代として後世の評価は低いのだが *5 ふるもとゆうこ律 *6 当然平均律だ *7 完全に一致しているわけではないのので、私がよく知らない音律である可能性もある *8 ここではいわゆるローポジションコードの例をあげる
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