2014-01-19
1984年アジア井戸ばた会の活動は、急速に低迷期に入っていた。
井戸掘り技術の伝承にこだわる「井戸」派と、生活の見直しを重視する「井戸ばた」派、仲間のつながりを守りたい「会」派?そんな方針の対立から1983年の第一次ミンダナオプロジェクト終了後、第二次プロジェクトの計画はまったくの白紙状態になっていた。
1984年春、「井戸」も「井戸ばた」も「会」も捨てがたかった私たち数名の意見が通って、会員の小池浩一郎氏が水車の縁で知り合い下宿していた、東京都羽村町(現羽村市)の中野一明氏の協力を得て、復活して間もない羽村中車水車小屋で合宿しながらの上総掘り実習が実現した。
師匠抜きでの素人井戸掘りは、早速つまづいてしまう。
そもそも多摩川の河原の砂礫層を、上総でも柔らかい地層の小櫃流域の道具で掘り抜くのは無理な話だった。
上総掘りの道具は売ってない。最初の上総掘り道具一式は袖ヶ浦の近藤晴治さん直伝のもので、近藤さんの道具をつくった鍛冶屋さんに造ってもらったものだった。
鉄の棒を焼いて鍛えれば道具はつくれる。鍛冶屋未経験の我々に不安は無かった。
鍛冶屋には炭が必要だ。都会の大学生にはいまの時代に木炭が売っているという認識は無かったので、さっそく自分たちで炭を焼くことになった。伏せ焼きである。杉浦銀次郎さんの「日曜炭焼き師入門」がテキストだ。木は多摩川の河原から流木を拾ってきた。
しかし最初の炭焼きは失敗だった。流木は乾きすぎていて難しい、大きい木を割るのもたいへんだ。雑木を伐り出して炭にする、教科書にはそう書いてあった。そこで中野さんに相談、知り合いの山から木を切らしてもらえることになり、さっそく青梅の山へ出かけた。
多摩川に近い山だったような気もするが、場所についてはほとんど記憶が無い。
しかし、急斜面での伐採搬出は、当時の私にとってはたいへんな重労働だった。
こうしてなんとか炭が出来、鉄棒は井戸掘り道具のようなモノにはなったけれど、結局井戸は完成しなかった。
井戸掘りは失敗だったけれども、合宿トレーニング自体は失敗とは思わなかった。
そのとき、私はこれが林業との出会いだとはまったく気が付かなかった。
もし、これを林業だと知り、林業についてもっと知りたいと思い、多摩の林業家との出会いがあれば、私は将来の見込みも全くない井戸掘りのまね事などやめて、林業に転向していたかもしれない。
しかし、井戸掘りへの情熱は冷めなかった。
山での伐採仕事は強烈な重労働だったけれど、井戸掘りよりも爽やかな気持の良い仕事だった。
生木の切り口の香り
肩に食い込む重さ
いまでも覚えている感覚だ
それは自然と直結した生産活動との直接の出会いだった
でもそのときはこの貴重な体験を出会いとさえ思わなかった。
生活感などというものが全くない23歳の私にとって、必要なことは目の前の問題の解決だけだった。中断したプロジェクトの再開、そのためのトレーニングと失敗。それでも諦めたくないフィリピンのNGOとの交流。
全てやってみないとわからない。そんな現場主義者だった私は、全体を見渡す事を否定はしないし、原理原則も理論もわかったつもりではあったけれど、直接的な実作業を通じてしか先には進まない考えに凝り固まっていた。
それから10年。私は、結果の出ない、片思い的プロジェクトに奔走した。
黙って別れた山と再開するのは10年後の事。33歳になっていた。
10年の空白は林業との付き合いにとっては誤差のようなものかもしれない
しかし貴重な10年ではあった。
それから20年の付き合いが続いている、こんどは片思いでは無い・・・はず。
|