「何故伐った」荒山雅行さんに厳しく言われた言葉だ。
たとえ10年生に満たない、藪であっても、これから300年生きたかもしれない、そんな存在を伐ること。
それには理由がなければならない。
300年生きてきた木を伐ることと、いま10年目でこれから300年生きるかもしれない木を伐ることに、人間的な情動としては、もちろん大きな違いがある。
しかし、本質的には同じ事だ。
邪魔だから
というのも正当な理由の一つ。
林業現場だけでなく、あらゆる生活の場面で、支障になる木というものは必ず出てくる。
何かをするために邪魔になる木を伐る。
その何かはその木を伐るに値するかが問われる。
砂防堰堤の工事のために木を伐った。 150年生の天然生ヒノキをはじめ、70年生程度のオオバボダイジュ、キハダ、ミズメ、 この山では普通なら絶対に伐採対象にはならないような木ばかり。 その砂防堰堤は本当に必要なのか、役に立つのか。 専門的な見解はともかく、妥当性が本当にあるのか疑わしい。
このような「支障木」の伐採を、人間の身勝手とする見方をある。しかし生き物は自ら生きるということに身勝手なものであって、生きる事の妨げになるものを排除するものなのだ。
そのかわり、自らもまた他の生き物によって排除され得るという事を知る必要がある。
危険だから
邪魔だからに含まれるかもしれない。
使うため
木を伐ることの理由として、もっとも妥当なものは、使うためという理由だ。
薪のため、道具をつくるため、家を建てるため、材料として木が必要だ。
もちろん、その道具や家が、その木を使うに相応しいかという問題はある。
人間が木を使うという事は、人間と森林の樹木とのやりとりの歴史のなかで、それなりの合意をもって認められてきたことだ。
木を伐って使う事と、森林を破壊する事とは違う。
あらゆる生き物がそうであるように、木もまたいずれは他の生き物のために使われるものとして存在してきた。
人は木を使う、やがて土に還る。
そうした循環の中にあって樹木と人はお互いにかかわりあって生きて来たのだ。
使う事と使われる事には連続性がある。
人がもし木を使うならば、木もまた人を使うだろう。
使う人のため
これもまた充分正当な理由だ。
使うことのなかには、伐る当人が使うのでは無く、誰かが使うためという事も含まれる。
その人がどのようにその木を扱うのかという事が、ここでは問われる。
使う人に木を渡す対価として、金銭を受け取ることもある。貨幣経済の社会だからそれ自体はまっとうな事であり、正当に扱われるのであれば、金銭を媒介に、木を売るということも認めて良い。
そこには、人間社会の共同性という回路を通した、木とのかかわりがある。
ここで木を伐る人は、木を使う人のために使うが、同時に木を使う人に使われ、その人を通して木に使われている。
売るため
だれがどのように使うかわからないけれど、買ってくれる者があるから、木を伐る。
森林を破壊しないな持続的なやりかたであれば、それも認めざるを得ない。
自分と自分の知り合いだけでは使い切れないほどの木を生み出す森林を持っていて、その森林を維持して行く役割を果たしているのなら、売るために木を育て伐って売るという、いわゆる林業も認めよう。
交換経済の行為としての伐採は、木を伐るということで、木を使う人直接ではなく、木を使う仕組みを使うことになる。もちろん同時に、木を伐る人は木を使う仕組みに使われることになる。実際には木を使うことを含めた交換による貨幣経済の仕組みに使われるということだ。
貨幣経済という人間が生きるための仕組みが、樹木という生命を使う。樹木総体としての森林を使うと考えても良い。人間社会が総体として森林社会に対峙し、森林社会と相互に使い使われる関係を結ぶ。
目的のはっきりしない伐採
なぜ伐るのか、答えられない、伐ることにしか目的が無いような伐採。
使うのでも売るのでもない、ただ伐ることで対価を得るために行われる伐採。
こんな悲しい伐採は無い。
ここでは、悲しいという表現に留めておくのが妥当かもしれない
この議論はより複雑で深淵な問題への入り口なので、以下の事を書き記しておく。
目的がはっきりしない伐採は単なるの殺生だ。
世界に目的があるかという問いに答えることは、簡単なことではないけれど、世界の中に存在している者たちには、それぞれの果たすべき役割があり、その都度に目的を持っているように思える。はたしてそれは充分に検証できてはいなけれど、ありそうな気がしている。
生きている者は、生きているという特別なありかたを通して、世界にあり続けている。
無目的な相互性の無い一方的な殺しのことを、単なる殺生と呼ぶことにしておく。
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