エンゲルスのように「起原」を問いたいのではない
なぜ、人は、神でないものを信仰するのかという事を、確認したいだけだ。
自分自身について意識する者は、自分に親やきょうだいがいて、それに連なる人々がいて、家族があるということを、あたりまえの自然として認識する。
そのあたりまえの在り方には、決まりなど無い。
その在り方に一定の決めごとがうまれ、自分自身の存在を規定する
こうして、あるカタチの家族が、人間の在り方を規定するようになる
私有財産は家族にとっての財産となり
このような家族が依って立つむらという共同体が構成され
そうした人々や共同体が国家をその存立基板にしている
このような認識方法を疑い、あるいは再確認することで、現代の社会を理解しなおし
いまや我々日本社会が直面している、人口減少にむかいながらの「民族」の滅亡という課題について考察をするめる、手がかり(足がかり)としたい。
ヒトは有性生殖する生物なので、繁殖にあたっては、メスとオス、女と男のペアが必要になる。
男女のペアの成立には、お互いが適切な配偶者であるかどうかを確認しあう複雑な手続きが必要で、一対一の恋愛感情からはじまり愛し合ってセックスをして子どもを授かるという一連の流れが生物的な自然としてあるだけでなく、文化的にも人間を育んできたおおきな要素だ。
母親と父親と子どもという生物的な原始的関係を、夫婦と子どもというかたちで理想化したのが聖家族信仰だ。しかし聖書にもあるように、幼子は精霊によって宿ったのであって最初から聖家族は生物的な原始家族とは異なる在り方で始まっている。
原始家族は実は核家族では無い。共同体に中に一時的に生じた生物的なペアをそのまま婚姻という仕組みとして取り込むことで。母と子という自明な関係だけでなく、父と子というDNA鑑定の技術以前にはきわめて曖昧だった関係を保証してきた。
実際には子どもは母親の家で育てられ、父親はその家に通うという婚姻形態がみられるように、父と子の関係は曖昧であり、実際父親がいなくても子どもが育つという事はまた自明である。
世俗の家族においても、父と子の関係は生物的な関係というよりは夫婦という絆を介した間接的な関係であり、人生最初の社会関係として子どもは父親と対面する。
女性にとって受胎は精子と卵子の結合という生物的な事実として実感される事はない。セックスと受胎の因果関係は常に曖昧であり、妊娠がわかるのは受胎から2ヶ月くらい遅れての事なので、むしろ精霊によって宿ったと理解したほうが自然かもしれない。
まして男性にとっては、全ては自分の身体の外側で起こることなので、そのように言われてそうなのかと理解したとしても、何ら確証を得られるものではない。
このように、家族の起原は曖昧であり、原始的生物的な家族としての夫婦と子どもというあり方も、仮想的なむしろ社会的な結果としてなんとか生じているとも言える。
こうして文化人類学の成果に尋ねるまでもなく、原理的に婚姻とは母子という生物的な関係に対してきわめて曖昧な父の存在を、社会的に保証する仕組みとして存在している事がわかるし、夫婦と子どもという核家族が家族の原始形態であるという保証はどこにも無いことがわかる。
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