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雨上がりの夕刻に聴く、グールドのバッハ

グールドの演奏は聴き流すつもりでいてもついひき込まれてしまうので、普段あまり聴くことは無い。
最近休日にはまとまって音楽を聴く時間を取ることにしているのだが、ベートーヴェンのチェロソナタを聴いたあとに、あらためてバッハを聴こうと思いたち、ふとグールドが気になった。

この2声と3声のインベンションとシンフォニアは、グレングールド固有の作品とも言えるほどの有名な録音。youtubeでたまたまイタリア語で紹介されていたものを聴いていた。JS Bach Invenzioni a due e tre voci. Glenn Gould http://www.youtube.com/watch?v=ZII_OWJcUfY

この演奏のCDを持っているし時々は聴くのだが、私がグレングールドのバッハを聴くようになったのは15年ほど前のことだ。

以前はどちらかと言えば歴史的な演奏スタイルを重視するほうで、本格的に音楽を聴くようになった70年代後半にはバッハと言えばグスタフ・レオンハルトのLPが代表だと思っていた。グレン・グールドはもちろん有名な演奏家だから名前は知っていたが、当時はピアノでバッハを聴くという考えがあまり無かった。

グールドのバッハで有名なのはゴールドベルク変奏曲、もちろんこのCDも持っている。でも好みという意味では、このインベンションとシンフォニアが一番好きな演奏だ。
繊細というよりは過敏と言えるほどの個性的な演奏で、とにかく聴き入ってしまうので、例えば車の運転中などに聴きたいとは思わない。

しかし決して刺激的な演奏というタイプではなく、むしろ精神が静かで透明になり落ち着くことができる。

演奏という行為をここまで極めた演奏家は他にいないと言えるほどの演奏家による、極めつけの録音だが、だれもこれを手本にすることはでき無い。このような演奏スタイルを継承しようという人が現れたという話を聴いたことはない。

バッハを演奏しようとする人が、この演奏をどう評価するのかわからないが、少なくともピアノを勉強中の生徒さんには絶対に薦められることは無い演奏だ。

とかくクラシック音楽というのは薀蓄を語られるもので、とくにバッハの演奏となると演奏家も聴衆も何かしら語る材料を持っているもので、音楽愛好家が即評論家的になる。

しかし、グレングールドの演奏はそうしたコトバによる評価や解説を超えたものとしてあつかわれているようだ。

クラシック=古典というものを、ある種の規範を重視した伝統芸能のようなものと捉える向きがあり、クラシック音楽の演奏においても標準的名演などというコトバがしばしば使わることがある。そうした人たちにはグールドの演奏は例外すぎるものなのだが、バッハの演奏というカテゴリーとは別にグレングールドの演奏(グールドは後半生には録音というかたちでしか演奏をしていない)というものがすでに、歴史的事実としてそこにあるので、誰も真似はしないけれど、名演奏としての固有の地位は揺るがない。

グールドというピアニストはピアノを解体しようとしたピアニストだ。ピアノという楽器の制約、演奏会という場の制約を避け、この録音に使われた1938年製のスタインウェイCD318は、徹底的にいじられてピアノらしさをそぎ落とされ、まるでクラヴィコードのような独特のザラついたタッチを持つ過敏に繊細な音に到達している、しかも鼻歌までが録音に拾われている。

こんなことをピアノメーカーも調律師も録音エンジニアも好むはずはないし、ましてピアノの先生が生徒に薦めるものではない。しかし一度でもこの演奏を聞けば、惹き込まれて魂を奪われるような体験をすることになる。

じつに音楽表現というものの深みを知ることになる演奏だが、同時に現代の世界ではもはな許されなくなってしまった表現なのかもしれないと思うことがある。

録音という動かしがたい実態として存在するこの表現は、インターネットによって全世界に無料で配信されてしまっている既成事実だ。それゆえに、今後はこのようなものが出てくる必要は無いと封鎖された領域になってしまっているようにさえ思える。

グレングールドが、ヨハン・セバスチャン・バッハが、音楽という表現に向かうときに、向き合っていた、あるいは背後の感じていたものは、いったい何だったのだろうか。

虚空に在って呼吸する個の無限の自由と絶対的制約の中で、評価などというものは存在しえない。

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