やりっ放しというわけにはいかない組織でやる仕事であれば、仕事の結果についての検査とか確認と呼ばれる工程があって、それに通ってはじめて、仕事が完成したことになる。誰かの注文に応じてやる仕事ならば、発注者がその仕事が注文どおりに仕上がったかどうかを確かめて、納得すれば完了だ。
しかし、個人で誰かのためというわけではなく、自分自身のためにやっている仕事の場合、誰も検査などしてくれないから、自分自身で納得することで仕事を完成させるしかない。
やはり自分ではない第三者の立場から、仕事を検査して、これで合格ということを決めて、その都度の仕事を仕上げていくことが現実的というものだ。
完成したからと言って手直しが認められる場合もある。手直しができなくても、他の仕事で先の仕事の不十分だったところを補うこともできる。そうやって仕事というものは組み立てられ、人の行為を前に進めることができるのだ。
それでは、自分自身にとっての第三者的な立場からの検査とは、いったいどのようなものなのだろう。厳密に自分が第三者的であろうとしても自分自身の主観の立場から完全に離れるということは不可能ではあるが。可能な限り自分自身の主観を超えた立場を想定し、その立場において自身の仕事をを評価・検査する。
いわゆる客観的な視点の代表的なものは、文字通り他人の目だ。これも厳密に他人の目ということではなく、とりあえず想定される他人の目という意味で、主観的なものに留まる場合もあるが、本当に別の人に加わってもらうことができれば、はじめて本当に客観的な視点での検査が可能になる。
しかし、その他人がこの仕事にどのようにかかわっているのかということが、しばしば曖昧なので、その他人の下した検査結果が、その仕事にとって妥当なものかどうか曖昧である。その人が発注した仕事ならともかく、この仕事はあくまで自分自身のための仕事なのであって、他の人間が評価することなど本質的に不可能だ。
そこで次に考えられる視点は、自然の視点、あるいは科学的な視点だ。自分自身がある仕事をやるに値すると考えて実行するときにも、それが合理的で意味があるかどうか、科学的な評価に絶えられるかどうかということで、判断しているならば、この科学的な視点による検査は、かなりの妥当性をもっているとみなせるかもしれない。
だが、この科学というものさし自体が正しく自然を理解しているか、あるいは自分自身が科学という方法について理解しているのか、ということが、曖昧であれば、とたんにこの科学的視点による評価ということ自体が、自分の主観の制約を免れないということになってしまう。
第3の視点。他人の目でも無い、科学的な方法でもない、それでも自分自身の主観だけでないと言い切れる新たな視座があるような気がしている。これを明らかにして、現実に自分の仕事の成否判断に用いることができるのではないか。
この第三の視点が可能なのか、あるいはそれに気がつくかどうかというがきわめて重要な課題となる。
|