4月8日、3月23日に亡くなった、村井先生の葬儀のために東京四ツ谷の聖イグナチオ教会へ行った。
村井先生がルーテル教会で受洗していたことは初めて知ったのだが、亡くなる直前にカトリックの堅信礼を受けカトリック信徒となり、カトリックの葬送ミサとしての葬儀だった。
私にとって村井先生といえば「小さな民からの発想」が最初に読んだ本であった。そのときすぐにマタイによる福音書の「小さな者」の話にすぐに結びつき、本質的にキリスト教的な思想だと思ったけれども、洗礼を受けていたことははじめて知った。
司式のビセンテ・ボネット親父の説教でも、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」 (マタイ25:40)という聖句が引用されていた。しかし村井先生は生前キリスト者であることを特に公言してはいなかった。
カトリックの大学である上智大学では、信者であるなしにかかわらず、キリスト教的であることは暗黙の前提とされている雰囲気があるのだが、村井研にはイエズス会師の教授たちの部屋のようなこうした暗黙的空気は皆無で、あくまでもヒューマニズムに基づく社会的公正の価値観が中心あったように感じている。
じつは直前まで無理を押してまっで葬儀に参列する必要を感じていなかった。葬儀に言っても故人に会えるわけではない。偉大な人の葬儀では生き残った者たちが、故人とのかかわりを社会的に誇示するような雰囲気がある。もし村井先生の葬儀にもそのような様子が見られるとしたら残念だ。
ところが、直前になって心変わりした。正確な原因はわからないが、なんとなく呼ばれたような気がしたと言っておこう。世を去った人と会うことは出来ないが、生きている多くの仲間と再開することができる。葬儀とはそのような場でもあるのだ。
私は同窓会はまだあまり好きになれない。昔の思い出を探るように語り合う空気になじまない。まして恩師の葬儀の場で普段すっかり疎遠になっている昔の学友たちと再開というのもまた悲しい。
ほぼ20年ぶりに多くのかつての仲間と再開できた。1990年ころの上智大学アジアウイークにかかわっていた仲間たちと居酒屋に場所を移して集うことになった。確かに一部の者たちは昔語りをしたがった。しかし私はそこの場で、この世界を生き延びるための連帯感のようなものを感じることができた。
生き残った私達は、まだしばらくこの世界で生き続けなければならない。それは死者との別離の寂しさに耐えることとは比較にならない、強靭な精神力と体力で乗り越えなければならない厳しい道のりだ。
バブル時代に大学時代をすごしてしまった私たちにとって、村井先生があくまで現場主義の立場から伝えようとした、アジアの「小さな民」の声を、現実味をもって捉えることは当時は難しかった。しかしあれから20余年を経て、私たちの暮らす日本という国が、ましさく悲壮な状況におかれていることの現実感がある。
生き延びるためには仲間が必要なのだ。そんな仲間の思いに私は呼ばれたのにちがいない。
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